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    プロローグ
    □ある晩の光景


    「またそんな罰ゲームみたいな酒飲んじゃって」
     私と少し離れた席に、金色に髪を染めた女が居る。
     顔はよくわからないが長い手足を晒したその姿はまるでマネキンのようだった。
     その隣で女と同じように煙草を吸う男は、ビアグラスにショットグラスの沈められた奇妙な酒を飲んでいる。
     それを見て、金髪の女は飽きれた感じでバーカウンターに顔を戻し頬杖をつく。
    「今日はバカな酒には付き合わないからね。あたしはジントニックでいい」
     金髪の女は長い髪を掻き上げながらバーテンダーに指図した。
    「ワンパターンだよな」
     低いトーンの声の男。
     聞き覚えのある声色に私は心臓がさけそうになった。
     横目で光ったのは彼のピアスだ。
     それは親友の弟、透だった。
    「最初の一杯目はジンって決まってんの」
     声の調子を上げ、女はげんなりしながら透とグラスを交互に見た。
    「殺されれば? 人妻に」
    「うん、だから待ってる」
    「何でよ」
    「習性」
     透は携帯電話をいじりながら言った。
     女がそれを奪おうとする。
    「意味わかんない。尚更キモい」
     気づかれる前に出よう、そう思った時、私の前にマスターがやってきた。
    「ご注文は」
     私はメニューを慌てて見直した。
    「ハイボール」上ずりながら、なんとか答える。
     隣の女が微妙にこちらに意識を向けた気がして私はふと顔を逸らした。
     金髪の女がジンのグラスを空にする前に彼はもう一杯ビールを水のように飲み干し、
    カウンターに金を置いた。
     何も言わずに出ていこうとする彼を、そのまま女は追いかけていく。
    「待ってよ。うちにプリンあるんだよっ。瓶に入ってて、ちょっとかわいいの」
     二人は私に気づく事もなく店を出て行った。
     目の前に出されたハイボールの氷が少し溶け、からんと音を立てた。
    「夫婦にはなりそうにないね、あの二人」
     マスターが言うと、私はぎこちなく苦笑した。
     二人の会話を聞かなくて済んだなら。
     罪悪感に浸る事もなく、美味しい酒が飲めたのかもしれない。
     そして、今度こそ笑顔で透に会えたに違いない。
     二人の居なくなった席に残された彼の飲んでいたグラスはやっぱり変だった。
    「あれは、なんですか?」
    「ボイラーメーカー。チェイサーは彼女みたいだけどね」
     何か洒落た事を言ったのだとは思う、が私はわからずグラスで顔を隠すようにハイボールを飲んだ。


    □wake up from a dreadful dream.


     線香と生花の香りで部屋は満ちていた。
     揺らめく煙と蝋燭の炎の揺らめき、そして骨壷。
     煙に当たりすぎたせいなのか、いつかわからない過去の光景が頭痛とともに蘇る。
     時々頭痛がした。
     まるで壊れたテレビになって叩かれているような。
     眠れなかった。
     祭壇に供えられた花の名前を思い出そうとしていた時。
     燃え尽きた線香から現れた文字を思い出そうとしていた時。
     そういえば、彼女はあの時も目を閉じなかった。
     その様子を、枯れて頭を垂れたヒマワリだけが見ていた。
     もしかしたら彼女の視界も数秒間くらいはモノクロに映ったかもしれない。
     風が吹くとヒマワリ達ははざわめき、あの独特な夏の土の匂いが舞い上がった。
     これは古い夢の記憶だ。
     今は彼女が何をあの掠れ声で訴えていたのか理解できる。
     数秒間のモノクロ、そして場面はまた暗転する。
     閉じ込められた蝶がくるくると飛び回っている。
     ここは物置部屋だ。
     一歩踏み出す度に、古くなった床が沈み込むように音を立てる。
     ネジの緩んだ寝台、見下ろす瞳、いつまで噛みついていても殺す事の出来ない欠けた牙。
     視界は暗転を繰り返した。
     落ちて砕けたカップから床の木目に染み込んでいくコーヒーの香り。
     何かが滴る。
     それは肌からこぼれ落ちず彼女の一部になっていく。
     漂うような曖昧な出来事。
     彼女はもう忘れてしまったのだろう。 




     遮光カーテンの隙間から光が落ちてくる。
     もう少し眠ろうかと体を横に倒すとテーブルの上の時計が、もう十時を指しているのが目に入った。
     透はゆっくりと体を起こし、煙草に手を伸ばす。
     体は少し汗ばんでいる。
     起き上がると一瞬眩暈を感じた。
     換気のために窓を少しだけ開けると、外から水の音が聞こえてきた。
     一階の中庭。
     胸の下まで伸びた金色の髪を風になびかせながら、少女が花に水を撒いている。
     光は無数に並んだ白い墓を照らし十字の影を作り出し、広大な緑の墓地には今日も眩しい光が落ちている。
     これから少ししたら春は過ぎ夏が来る。
     暑くなる時間に水をやろうとすると土の中の湿度があがり、根が焼けてしまい枯らしてしまう、
    だから太陽の登りきる前の朝に水をまく。
     この理屈を彼女が理解しているのかはわからないが、言いつけを守り必ず定時に仕事を
    する彼女の姿は、誰が見ても柔らかく慈愛に溢れるものに写るだろう。
     フリージア、デージー、チューリップにクロッカス。
     知らぬ間に至る所に生え始めたキンポウゲ。
     そしてまだ花を咲かせる前のクレマチス……まだまだ自分の知らない花々で
    囲まれたこの空間は無数の墓をオブジェのように置く事で作り上げられ、死を
    許容するようで拒抗する、そんな拮抗の織りなすコラージュアートのようにも映し出される。
     隔絶した光彩陸離の春の庭、仁重邸。

     透はコーデリテという北国で生まれた日系ハーフだ。
     4年前、彼の父親の勤めるその国の企業が、事故を起こした。
     事業関係者だけでなく、その周囲に住んでいた人々を巻き込む大きな事故だった。
     それは、天災と人災が同時に重なった大惨事だった。
     父親はその事故以来目覚めていない。
     当時日本で父方の叔母の元で暮らしていた透はその難から逃れ無事だったが、丁度里帰りしていた姉も、
    祖父母もみんな事故に巻き込まれてしまった。
     色々あって、透は会社の責任者の従兄弟叔父の仁重の家で暮らしている。
     会社の筆頭だった義父は、事故の後、責任問題に追われていたが、
    とうとう半年前に脳梗塞で倒れてしまった。
     事故から4年が経ち、ようやく会社がらみの件が終息、やっと孫の直哉と遊んでやれると
    喜んでいた矢先の頃だった。
     義父の仕事の手伝いをして生活をしていた透だったが、ろくな説明も無いまま孫の
    直哉とともにコーデリテを離れ日本へ帰国するよう命じられ、義父の回復を待ちつつ
    今後のあり方を考えていた短いようで長い半年間。
     もうすぐ義父は退院し、日本へ戻ってくる事になっている。

     透が身内をコーデリテで失ってから、この広い屋敷が彼らだけの物だったのかというと、そうではない。
     ここは、透と同じ境遇の、日本人関係者の遺児達で賑やかだった。
     しかし全員が、事故が原因だと思われる症状により死に、墓地と化したこの庭で
    その存在があった事を証明しているだけだ。
    「遊ぼうよ」
     ミンの後ろに男の子がまとわりついている。
     今年やっと5歳になる、義父の孫の直哉だ。
     朝のテレビアニメを見終わった頃だろう。
     ミンは困り顔で直哉と花を交互に見ながらおろおろと立ち尽くしている。
     彼女はいつも、とてつもなく動作が鈍かった。
     彼女について透がわかっている事は彼女が純血のコーデリテ人で、年齢が14歳という事くらいだった。
     コーデリテでの事故後、仁重がこの屋敷を孤児の療養所とする事が決まった後に認知症の最終段階に
    入っていた仁重老人と共に、彼女は発見された。
     彼らは週に3回やってくる給食のサービスのみで、発見されるまで二人きりで生きながらえていたらしい。
     仁重老人はその年の冬に亡くなった。
     その息子である義父の生活の拠点はそれまでコーデリテだった。
     義父は仁重老人の息子でありながら彼女の存在を知らなかった。
     彼の話ぶりだと父子関係は淡白で、最初の頃はミンの事も変わり者の父が
    買った少女なのだと嫌悪感を露にしていた。

    「ミンったらー」
     直哉はミンのスカートを引っ張って、遊びに誘っている。
     直哉はミンがいつまでももたもたしている事がじれったいのだ。
     これもいつもの光景になりつつあった。
     最初は直哉を叱ったりもしていたが。
     5歳の子どもに負けてしまうミンがいけないのだ。
     それはそうと。
     ミンは奇妙な少女だ。
     金髪に金眼。
     コーデリテという国では時々金色の眼を持って生まれる子どもが居る。
     彼らはオーロと呼ばれオパールのような遊色を持つ瞳は、確かに珍しかった。
     だが、これ自体は国特有の眼病であって、生後間もない間に手術を受ける事で
    視力も正常に獲得されるという。
     透の母親はコーデリテ人だったが、だいぶ昔から奨励されるようになったワクチンにより身内には一人も
    このような瞳の者は居なかった。
     最初の頃のミンは、まるでガラス玉のような目をしていた。
     知的好奇心など失われたように、視線を合わせてもそこには何も映らない。
     時の止まったように一点を見つめている姿などは、まるで人形のような振る舞いだ。
     それらを見ていると、彼女とは意思の疎通望めないと直感的に理解するだろう。
     だが、ミンの部屋には仁重老人の様子が日本語とコーデリテ語の両方で綴られたノートや、
    彼女が描いたと思われる庭の花の繊細なスケッチが残っていた。
     正しい文法に、きれいな言葉遣い。
     それを見た義父は、ミンに一目見た時とは異なった知性と、人間らしい慈愛の心を感じたのだ。
     生前、厳格だった父、仁重老人を思わせる、そんな文面でもあったという。
     後からわかった事だが医者の見立てによると仁重老人を介護していた数年の間に、
    ミンは何度か熱を出したらしい。
     介護日誌はそこから数日途切れたり再開したりを繰り返している。

     前向性健忘。
     新しい事が記憶出来ない。
     それが彼女の抱えている熱の後遺症らしい。
     彼女の記憶は、数時間しか持たない。
     孤児の受け入れ時にミンを診た医師は彼女に日記やメモをつけることを教えたが、
    それから間の立たないうちに別の医者がミンのかかりつけになっている。
     屋敷への住み込み、ミンとの同居も決まった当時高校2年生だった透は、
    ミンとの付き合い方にとても苦労した。
     姉が孤児達と同じ症状で亡くなるまで、ミンは姉の世話まで手伝ってくれていた。
     しかし、透がミンと生活したのは実質一年弱だ。
     高校を卒業後、透はこの屋敷を離れ、義父の手伝いのためにコーデリテへ渡ったのだ。

     ミンはようやくホースから手を離し、直哉の方へ向き直った。
     申し訳なさそうにまゆを寄せている。
     記憶の面以外にも何か問題が彼女にあると、なんとなく感じる事もあった。
     しかし、不器用で言葉の出始めが悪いだけで、わりと色々な事を考えていると透は思っている。
     だが、今日はとくに調子が悪いようでいつまで見ていてもミンはぐずぐずしていた。
     やれやれ、透はカーテンを半分開けた。
     この部屋もようやく眩しい昼の光が満たされる。
     義父の孫と遊ぶ事もようやくコツを掴み、こんな自分にも子どもは懐くのだなと感動したのは最近の事だ。
     コーデリテでの生活は怱忙を極め、こんな安穏な日々があるなど思いもしない事だった。
     半年もここで暮らせば体は鈍り自堕落な生活が板についたようになってしまった。
     窓を開ければ日が眩しく空は青、暖かい風が頬を撫でる。
     それでもまだ、この光景に現実味を感じる事は無い。
     少しの間だけでも安逸にひたる事が出来れば辛い事などないだろうに。
     ほっとするたびに、その背後から後ろめたさのような黒い影がいつでも自分を追いかけてくる。
     きっとそれらの全ては切り行為なのだ。




    「ねぇ、ミン、遊ぼう」
     ミンはにこにこしている彼に釣られるように微笑み返した。
     そして、手に持っていたホースを指差し、ミンは「あとでね」と言った。
    「さっき、何を見てたの? ミンってお化けが見えるの?」
     ミンは5才の彼、直哉とその「兄弟達」を交互に眺める幻想から、片足が抜けきれずに居た。
     彼が遊びの場にしているこの中庭は、まさに墓地だった。
     かつてここには仔犬のように走り回り花を投げ合う大勢の子どもの姿があった。
     彼らがこの空間の主役であったからこそ、この光景には夢を見ているような不思議がある。
     日だまりの白い光に今にも吸い込まれ消えていきそうだと思ったものだ。
     一人、また一人と弱って死んでいく子供を埋葬し、つい一昨日体調を崩し入院させてしまった子供を
    病院へ見送りこの家に残る子供は彼一人。
     しかし、ミンが返事を出すには、いつも時間を要した。
     その間は直哉にとってまどろっこしいものなだろう、彼はホウキを手放すと甘えた声で
    ミンのスカートを引っ張っる。
    「なんか言ってよー」
     ミンは頷いた。
    「皆が居た時の光景を、思い出していたの」
    「ふーん。昨日の約束覚えてる?」
    「虫かごなら、さっき出しておいたよ……」
     彼女がようやく答えると直哉はみるみる頬を膨らませた。
    「一人じゃ虫取りつまんない」
     ミンが、だだをこねる直哉に負けてホースの水を止めようとした時、
    立て付けの悪い屋敷のガラス戸が開く音がした。

    「約束をよく覚えていたな、ミン」
     ゆったりとした男の声。
     直哉はミンの裾を掴んだままクルリと振り返った。
     戸の脇にピアスをつけた男が立っている。
     透だ。
     彼は躊躇わず大あくびをした。
     だぼだぼによれた長袖は彼の屋内での普段着でそれを寝間着と一緒にしているものだったが、
     明らかにその様子は寝起きだった。
     義父の仁重が体調を崩し日本に来てからは骨抜きの生活で、透も気が引き締まらないのだろう。
     体調不良を理由にアルバイトを辞めてからずっとこの調子だ。
    「今日はもう起きないのかと思った!」
     直哉が呆れたように言った。
     そして直哉と透はどことなく似ていて、外を歩くと親子と間違われる事もあるほどだ。
     透と義父は、元々従兄弟叔父の関係で、血縁としては他人の空似レベルだが。
     透は、陽の光が痛そうに目を細くし、庭には出ないまま直哉に手招きをした。
    「ミンには仕事があるんだから、俺と先に遊ぼう」
    「何して遊ぶの?」
     直哉が尋ねる。
     透は疲れた表情のまま「小麦粘土」と答えた。
     直哉はミンの裾をはなして、ホウキも地面に放ったまま走って行く。
     透は直哉を肩の上に乗せると部屋の中へ入っていった。
     それを見送り、ミンはホースを握り直して花の水やりを再開した。
     ふと、顔を上げた先の空がとても眩しく、ミンは目を細め深呼吸をした。
     ミンは、物心ついた時から曖昧な光の霧の中に居た。
     何も思うことなどない無意識に生活している時と、考え、感じるという意識的に生活している時間の波。
     無意識の状態の方が自覚を持って起きている時間よりも長いのだ。
     はっと我に返ると、物思いに耽っていたというにはあまりに長い時間が過ぎている。
     その瞬間はミンにとって深い眠りから覚めるそれと同じだ。
     それまで感じていた事、見ていた光景を思い出そうとする事は、ミンにとって箱の中の
    煙を掴み取ろうとするようだった。
     手に取ったらその形そのものがふわりと、はじめから何も無かったかのように消えてしまう。
     この刹那に感じた事がどんなに重要な意味を孕んでいたとしても、
     次の瞬間には透明な煙となって消え、なんともない、この景色の一部になる。
     たとえこの光景が、次に目を開いた時に生きた空もない朽ち果て悲しみに咽ぶ情景に一変したとしても
    それが夢であると信じる事が出来ないだろう。
     小鳥のさえずりと草の風に揺れる音、屋内からの笑い声。
     時たま彼女は虚無を感じた。
     そんな毎日を繰り替えして春が過ぎた今日、いつの間にかミンは墓守になっていた。
     薄く目を開けて庭を眺めると墓の周りを駆け回り花を投げ合う子供達が目に浮かぶ。
     ミンはようやく庭の花々に水を与え終わると、ホースを片付けバケツに水を汲んだ。
     軒下まで進むと、すぐ近くのテーブルで透と直哉がビデオを見ながら粘土をいじっているのが見えた。
     ミンは雑巾を絞り、床拭きをはじめた。
    「飾った作品を褒められる事が好きだったよ。でも最後は片付けないといけないだろ、
    箱に元にあったように片付ける。せっかく作った作品を壊して。それが嫌で、
    その形のまま収めようとしていたら、先生に潰されてさ、大泣きした事がある」
     透が言った。
    「ぼくの先生はそんなことしないもん」
     その時、テーブルに置かれてあった透の携帯電話が鳴った。
     ズボンで手を拭くと、透は電話を取りそれに素早く応答した。
    「はい……え、じゃあ来週に……もう、大丈夫なんですね?」
    「やっくんママ?」
     直哉が尋ねた。
    「なんで」
     透がぎょっとする。
    「やっくんママと透って、仲良しだから」
     透は顔をしかめながら直哉の頬に人差し指を押し当てた。
    「お祖父ちゃんだよ、明後日、帰ってくるって」
     直哉が笑顔になる。
    「ずっと病院にいたらどうしようかと思った! じゃあ家に居るの?」
    「もう退院だからずっと家だよ」
    「電話かわってよ!」
     直哉が透の携帯電話を奪い取る。
    「おじーちゃん、元気? そっちはまだ寒い? あのね、こっちはあったかいんだよ。汗がいっぱい出るから
    昨日、ふくを二回も着替えたんだ」
     電話の向こうで義父が笑う声が聞こえた。
    「早く帰ってきて!」
     直哉は大喜びで走りだし、近くで床を拭いていたミンの回りをくるくると回った。
    「こらこら、……」
     直哉から電話をとり、透は二言三言話すと電話を切った。
     いくつもつけられた透のピアスが光る。
     透はすぐに直哉をおろし、ミンの方を振り向いた。
    「義父さんの様子次第で、いずれ俺はコーデリテで暮らす事になる。そうしたら君はどうする?」
     ミンはすぐには答えられなかった。
    「僕もコーデリテ帰る」
     ミンが答える間もなく直哉が呟く。
    「直哉はコーデリテ語勉強しないとな」
    「じゃあミンも透もここに居て」
     透は困り、直哉の顔から視線をそらした。
    「俺は仕事をしないと。だからここでは暮らせない」
    「透働くのお?」
    「お祖父ちゃんの通訳やりながら仕事を覚えるんだよ。お祖父ちゃんは前の病気で
    コーデリテ語が話せなくなったんだよ」
    「知ってる。でも、お祖父ちゃんコーデリテ語、話せなくていいって言うよ。僕もあんまりわからないし」
    「まあ、そうだよな……。最近はこんな暇もらって、自分の存在意義について悩んでるよ」
     透は自嘲した。
     直哉が呆れ顔で透を見つめ返す。
    「もー。お祖父ちゃん本当に帰ってくるよね?」
    「直哉は本当にお祖父ちゃんが好きだな。それほど構ってくれないだろ」
    「ううん、色々話すよ」
     直哉の両親がコーデリテの事故で死んでからは彼の祖父である仁重が直哉の親である。
     しかしその間、仁重は脳卒中の後遺症によりリハビリ中で、面倒を見るのは透や、
    時々やって来ていたヘルパーたちだった。だから透は直哉が義父を慕う様子が不思議で仕方なかった。
     血縁は「家族」という名のコミュニティ以上のものだろう。



     静かになっている。
     ミンが部屋を覗くと透がソファの上で眠っていた。
     庭の方へ再び振り返ると、両手を後ろに組んでにやっと笑う直哉が居た。
     直哉はミンの腕を掴んで裸足のまま庭へかけていく。
    「粘土は?」
     ミンが直哉に尋ねる。
    「車つくったよ。でも透も寝ちゃったから」
     彼はどこか不服そうにミンの腕にぶら下がろうとしながら、こちらを見ている。
    「透、寝てる。向こうにいたときはそんな事無かったのに」
     ミンはそうね、と言った。
    「ミンは相変わらずだけど」
    「これでも……メモを書くことが減ったのよ。それに……頑張れば昨日の事を鮮明に思い出せるし、
    昨日途中まで読んだ本も……途中からでも内容をちゃんと覚えているわ。だから続きが読めるの」
    「それって普通じゃん」
     ミンは苦笑した。
    「そうだね。……私、それでまわりの事が今はわかるの。……だけど、それ以前の事は少ししか覚えていない」
    「少しって?」
    「ヒマワリ畑の事は……少し覚えているわ」
    「なに? それ」
    「もっともっと前の事。透がここに居た事があったの。その時、行ったよ」
    「どんなの? ヒマワリって何?」
     ミンは少し笑った。
    「お花の名前だよ。夏になったら咲く、黄色い大きな花なの」
    「んー。名前は知ってる! あの黄色いのかー。夏にしか咲かないの?」
    「コーデリテには、無いものね」
    「ないねー」
     直哉は極寒のコーデリテで育ったので日本の暑い夏を知らない。
     春も夏も、日本では初めて経験することになるのだ。
     ミンの脳裏に焼き付いた風に揺れるヒマワリ畑の光景。
     いつだったか昔、透と広大なヒマワリ畑に出掛けた事があった。
     比較的古い記憶である事だけはなんとなくわかる。
     今やその記憶は実に曖昧で、考えようとするとまとまらなくなり、
    その分だけその大切な記憶を削られる気さえするのだ。
    「そこどこにあるの?」
     ミンは押し黙った。
     場所がまったく思い出せない。
    「行き方わからないの?」
    「うん……」
    「でも、ミンの目の中には咲いてるね」
    「咲いてる?」
     直哉の瞳には自分が写っている。
    「わかった。直哉の目の中にも咲いてるよ」
    「ね!」
     ミンは思い出すことが困難である。
     記憶に留めておく事が出来ない病気なのだ。
     だが、それが始まったのはおそらく、3、4年前の事だ。
     ヒマワリ畑。
     誰もが一生のうちに経験したこと全てを記憶しているわけでは無いだろう。
     感懐も景色もぼんやりとしたイメージでしか再生される事はない。
     そこへ行ったのはいつだったか、それまでの事はよくわからない。
     だが、意識してみれば人は必ず物心ついてから始まったラインの上を歩いている事に気付く。
     その線はけして途切れるものではないから、確信を持ち過去を語れるのだ。
     だけどミンはすぐにかすれて消える線の上を結ばれない点から点を飛ぶように生きていた。
     今まで立っていた点は辛うじて見える、だけどその前に立っていた地点はあったのだろうけど、もう
    ここに立つ時点では既に消え失せたように思い返すことが困難なのだ。
     連続した自分であるという感覚も時に忘れる。
     それを説明しようにも、言葉を紡ぐ糸が絡んでしまったり、糸すら見つからなかったりで、ミンは
    小さな声で一言返事をする事が精一杯だった。
     ミンは、彼らが来る前に自分がどうやって生きていたか覚えていない。
     義父いわく、この屋敷の所有者で、義父の父親であるおじいさんと二人で暮らしていた
    という事らしいが、現実味が無かった。
     おじいさんの事を、一つも思い出せない。
     だから、病気が始まる前後に経験した彼女のストーリー性のある唯一の記憶であるひまわり畑での出来事は、
    夢幻の世界ではなく、確かな想いと感情を持って自分が、人として生きてきたという確証であった。
     ミンはそのぼんやりとした記憶に支えられて生きていた。
    「直哉は、コーデリテがいい?」
    「ううん。本当はね、ずっと寒かったしこっちがいい」
    「私も、寒いのは苦手」
     ふと、「今」を意識する瞬間がある。
     突然に、色々な事が鮮明に浮かび出す。
     シュルレアリスムのようなこの光景も花々も、四角く切り取られた空も地面もすべて彼女の立っている
    場所になる。
     それは夢から回帰した事を確信する瞬間だ。
     その感覚は、記憶の無い数年間の間、何回も経験してきた感覚だ。
     強い既視感を感じる度、自分が半分欠けた状態で居るような、不完全さを感じるようになっていた。
     手足を失い思うように動けないのと似ている。
     自分という存在は希薄で、鏡を見たり自分の体に触れてみても、不安が満たされることは無かった。
     いつだってこうして、人に触れられたり、相手の瞳越しに写った自分の姿にミンは安心していた。
     私が私として、此処にいる。
     ミンは、直哉が一生懸命話しかけてくるのが好きだった。
     直哉の記憶は美しい景色であふれている。
    「あっちのおうちはすっごく大きなマンションなんだよ。35階にうちがあるんだよ」
    「下の方は小さく見える?」
    「えー。下は怖いからあんまり見ない。遠くは海だよ。山も見えるよ」
     直哉はミンが答える事が出来ない質問をいくつも投げかけてくるようになった。
     そうしていく中で、知っている事はかなり狭い世界の範囲の事に限られていという事にミンは気づいた。
     知らない事に対して、ミンは今まで殆ど疑問に思うことはなかった。
     起きていても空洞だったからだ。
     空洞で居る事、夢を見ているような日々を過ごしていたとなぜ今まで気付かなかったのか、
    「ミンもコーデリテで生まれたんでしょ? 何か覚えてる?」
    「ううん、何も無い。だけど、ロッカートさんは……病気にかかる前のことは、
    もしかしたら思い出せるかもって、言ってくれたよ。コーデリテの写真を見て、
    どこか懐かしく思えるから……。だけど、病気になってからの事を思い出すのは
    少し難しいって教えてくれた。今持っている意識の感覚とは違うんだって……不思議ね」
     自分は誰で、いつからこうしていたのだろう。
     ミンは疑問に思う事すら忘れていた。


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