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    4話:千春

    *4話*千春


     彼女の名は伊東千春といい、透の亡き姉、貴子の大学時代の後輩だった。
     大学時代は同じサークルに入るなど、貴子と千春は姉妹のように仲がよかった。
     透との関わりは、貴子が故郷コーデリテで遭った事故からだった。
     千春は彼が、世話になっているという従兄弟の家に預けられた親戚の子供大勢と住んでいると聞いていた。
     その親戚の子供たちが全員亡くなったのだと、透本人から電話で伝えてきたのだ。
     千春は淡々とした透の口調にあきれながらも、懐かしく、悔しい想いに胸が焦がされていくのを感じていた。
     4年前、その事故が起こった夏頃、貴子はコーデリテに居た。
     訪れていた両親の住まう国で事故が起こった事は、日本では殆ど報道されなかった。
     それまで貴子は弟の透と父方の叔母の家で暮らしていた。
     ただ、その叔母は透と折り合いが悪く、透の一挙一動に怯えていた。
     貴子からも相談を受け慰めていたので、彼らの事情についてはよく知っている。
     そんな貴子に、父親の居るコーデリテへ一時帰国をしてみるのもどうかと提案したのは千春だった。
     自分がそんな提案をしなければ……。
     貴子は親戚の仁重の家で暮らすことになり日本へ帰ってきた。
     事故の影響を身体に受けているという事がわかってからは透直々に遠慮するように言われた
    事もあり、貴子の見舞いへの足は遠のいてしまった。
     そんな中、貴子はいわば透の介護放棄により亡くなり、千春は彼を恨む気持ちが芽生えていた。



     フェンスを開けると、透は軽く頭を下げた。
    「この度はご愁傷様です」
     彼女は門扉をくぐり、庭を見てため息をついた。
    「今年もキンポウゲが沢山咲いたんですね……」
     千春が呟く。
     聞いていなかったのか、透は返事をしない。
     千春は新しい墓の前に白い菊の花を供え、持参してきた線香に火をつけた。
    「お線香でよかったかな?」
     千春の問いに透は疑問符を浮かべた。
    「お墓は西洋風で……宗派とか」
     千春が付け加えると、透は「大丈夫です」と微苦笑した。
     彼は歳をおうごとに明らかに老けている。
     今は喪に服すような地毛の黒い髪、色白で黒子の目立つが端正な顔立ちはそのままに
    やつれて、老けたとも言える雰囲気を醸し出していた。
     ピアスはあの頃より明らかに増えている。
     整った白いシャツに不釣り合いだ。
    「いつも気にかけていただいてありがとうございます」
     これ以上絞りきれない雑巾から血まで滴り落ちてきたような台詞。
     それが意外で、おずおずと透の顔を見上げると、彼は相変わらず覇気が無く
    太陽が眩しいと言った風に目を細くしていた。
     以前のように彼のことを怖いと思う気持ちは一つもなくなっていた。
     そう思えば思うほど、千春はどうすればいいのかわからなくなった。
     線香が少し燃えてきた所で、透は千春を玄関へ通した。
    「ちょっと廊下を歩きます、ついて来てください」
     静かな廊下を歩きながら千春はふと思った。
     横目にオルガンの置かれた部屋が見えた。
     テーブルの上には画用紙と色鉛筆が乗り、床にはロボットの玩具が転がっている。
    「あの玩具」
    「義父さんの孫の直哉という子供も一緒に暮らしているんです」
    「ロッカートさんから聞いてます。コーデリテから3人で日本に来たんですね。
    直哉くん……もうすぐ小学校だから連れて来たんですね」
    「まぁそうです。でも幼稚園には行かせていません。向こうの家族の所に預けるより、ここでの
    暮らしに慣れてもらった方がいいっていうので、日本に連れて帰ったんです。
    義父さんも、定年後はここで暮らすようだし」
    「じゃあ、子ども時代の透君達と同じですね」
    「直哉も4年前両親を亡くしました。今は義父さんと俺が親代わりなんです。だからちょっと違うかな」
    「そうだったの……」
    「そんな顔しないで下さい。不幸は続いたけど……これからうちの家族も落ち着くだろうし、
    直哉は親の事、覚えてないから幸せですよ。最近は習い事も楽しいみたいで、あっちに居た時より
    動くんで体も大きくなりました。多分、今は義父の所に居ます」

     幸せ、透の口から出たその言葉はとても苦しい言葉だった。
     透の父親は事故が原因で未だに昏睡状態だ。
     彼らの家族関係についてどうなっているのか曖昧な部分があったが、コーデリテでは親戚や
    その周辺の一族は「家族」と呼ばれ、同じ場所で暮らすという。
     透が言った「家族」というのもおそらく自分の周辺全体を指しているのだろう。
     その概念は日本の親戚よりかは強く親密な繋がりをもっており、絆的な面では
    日本の両親─子という家族と、近いものがあるという。
     千春の親戚は全て遠方に散らばり、会うのは法事くらいだ。
     まるで遠い文化だ。
     貴子と透はコーデリテで生まれたらしい。
     そんな彼らが叔母の元で日本に生活していた理由は、コーデリテという国にはあまり学校が無いため、
    それならば高校を出るまで日本で勉強をした方がいいという父親の教育方針によるものだった。
     母親は早くに亡くなっていたので、叔母が母親代わりだったという。
     その叔母も、貴子曰くアルツハイマーを患って、貴子が高校を出る頃には既に病気が進んでいたらしい。
     今もその叔母は施設入所をしているが、透との面会は拒んでいるそうだ。
     絵に描いたような不幸。
     彼が今語る平和は本物か。
    「直哉をあなたに一度会わせてみたいと思ってたんだ。専門分野かなって」
    「私はそんな……。今は仕事もしてないし……」
    「やめたんですか?」
    「ちょっと疲れちゃって」
     千春は昨年度まで福祉施設で相談業務に従していた。
     辞めてしまった理由は一重に自分が「良い援助者」ではなかったというありふれた理由、
    バーンアウトというものだった。ケースに一方的な感情移入をして、自分だけでなく相手も
    気疲れしてしまっていた事をようやく自覚したのだ。だが、五歳になった直哉は一体どんな
    子供になっているのだろう? 透の義父でもある実の祖父の元で健やかに育っているのだろうか。
    ロッカートとの会話でなんとなく家の様子は把握していたが、彼も透と一緒に何人もの
    「家族」が葬られる所を見てきたのだ。
     彼らの庇護の元、このやわらかな空間の元で。
     こういう風に心配事が浮かんでしまう時、これは職業病なのだと千春は思う。

     窓の開け放たれた箇所から風が流れてくる。
     ざわざわと風が外の草花を揺らしている。
     それに揺られるように千春も緊張が高まる。
     前を歩く透の足に視線を戻しながら、千春は深呼吸した。
     花が咲き乱れその香りで満ちた屋敷は別世界のようだった。
     この場所だけが、現実と切り離されている。
     眩暈を感じるほどに光を受けた楽園のような。
     透はただ無言で廊下を進んでいく。
     彼はこんな場所と、これから本当の冬を迎えるコーデリテを行き来している。
     全てを失った国で、そこまでして、なぜ。
     千春はわからなかった。
     だから、えぐり返して彼の本心を探りたかった。
     それは憎しみにも近い想いだった。
    「あれからあなたは、変わったんですか」
     千春が言うと、透は相変わらず眩しそうな顔で振り返った。
    「よく、わかりません」
     その時、ぱたぱたと男の子が掛けてくるような足音がしたと思ったら、透の腰ほどの背丈しかない男の子が
    廊下の突当たりからひょっこりとあらわれた。
     千春は少し驚いたが、それが直哉だという事はすぐにわかった。
    「直哉君ね」
     千春がそう言うと、直哉は目を大きくさせて首を傾げた。
     千春が笑っていると、透は自分の後ろに隠れようとする彼の頭にぽんと手を置いた。
     直哉は透と並ぶとかなり血色の良い肌色をしていた。
    「こら、ちゃんと挨拶しなさい」
     透がけしかけると、直哉は兵隊のように両足を揃えた。
     直哉の父親のような振る舞いに、千春は思わず苦笑した。
    「こんにちは。おばちゃん、誰?」
     千春は少し笑った。
    「私は透君のお姉さんの知り合いで、お墓参りに来たの」
     直哉はふうんと言った。
    「そういえば、お祖父ちゃんの部屋に居たんだろう? ミンが来たか?」
    「うん」
    「そっか。じゃあ、降りてこないかな……あ、ここに掛けて下さい。お茶をいれてくるので」
     どうやら案内されたのは応接間のようだった。
     透は電気をつけ、千春を目の前のソファに座らせた。
     千春が直哉に微笑みかけた時、コンコンと何かを刻む小さな「あの音」が聞こえてきた。
     屋敷がしんとしていなければ、気付かない小さな音だった。
     透はそれに気付いたようだったが、何も言わなかった。



     何年も昔からあるようなどっしりとした茶色のソファに大きなローテーブル。
     壁には少し黄ばんだ額縁に入った花の油絵が飾られている。
     当時は医師や看護師、ヘルパーなどが多く出入りをしていたようだが、今はこの屋敷も静かそのものだった。
     風がよく通り、小鳥のさえずり、庭に植えられた草木がざわめく音だけがする。
     応接間を通る前に見えたテーブルの上には画用紙とクレヨンが散らばっていた。
     オルガンは子供が使うことがあったのだろうか、それはとても穏やかな光景だ。
     一番最近、貴子が亡くなる前にここへ訪れた時は門前払いだったが、
     外からでも子供の声が聞こえてやかましかった事が伺える。
     だが、本当にみんな死んでしまったのだ。
    「透のお姉ちゃんのお友達?」
     直哉が興味津々で千春を見ている。
    「ええ、大学時代の先輩と後輩の関係で、とてもお世話になったの。ところで直哉君、あなたは辛い事とかは無い?」
    「みんな死んじゃったのは辛いよ。でもお祖父ちゃんもこれからはずっと居てくれるし」
     直哉はにかっと笑った。
    「何か習い事をしているの?」
    「リトミック。今は行ってないけど」
    「やめたの?」
     直哉は首を横に振った。
    「別の習い事にしようって透が言うから、お休み中」
     その時、お茶を入れた透が戻ってきた。
    「直哉、縄跳びの紐、なおしといたからそれで遊んでなさい」
    「ほんと?」
    「うん、見ておいで」
     透はそう言いながら千春の前に湯のみを置いた。
     香ばしい香りが鼻腔をつく。
     千春は不思議なものを見るように瞬きをした。
    「あなたが淹れたんですか?」
    「はい。ほうじ茶です」
     一口飲むと、それはちゃんとほうじ茶の味がした。
    「ありがとう……。ところで、直哉君って、もしかしてご両親のどちらかがコーデリテの人でしたっけ?」
    「はい。母親が」
    「そうなんだ。透君と直哉君って、なんだか似てるなあって思って。目元とか、髪質が……」
     透は少し笑った。
    「よく言われます。他人くらい血縁は離れてるのに。だから説明が面倒な時は息子って事にしてます」
    「えー。透君はまだ、お父さんには見えないなぁ……」
     透は「そうですね」と苦笑した。
    「やっと色々落ち着きだしたんです。義父さんもリハビリを終えてからは仕事へ復帰出来るように
    なってきました。もう定年ですが……やっと直哉とゆっくり暮らせる日が来ると思います」
    「じゃあ、ここでずっと暮らせるんですね」
     千春の言葉に透の目から突然光が失われた。
     サンダルを履いてさっそく庭へ出て駆けていく直哉の背中を追いかけながら、透は呻くように呟きはじめた。
    「俺はコーデリテで働きます」
    「でも、透君のお父さんもこちらの施設に入所されていましたよね。置いていくわけには……」
    「父はもう回復しません。それに、あの事故が無かったら、俺はそのままだったと思います。こっちの祖母も親戚も
    俺の事はよく思ってない。姉が死んできり、何も連絡も無くなったし、居場所も無いので」
     それは幾重にも意味のとれる皮肉だった。
     貴子と透の姉弟関係も、彼自身の素行も、何もかも全てだ。
     事故が起きなくても、どうせ誰も報われなかった。
     透は今でもそう思っているのだろうか。
     やつれ、優しい雰囲気さえ感じた気がしたが、透はやはり昔のままだ。
     少なくとも千春にとって透は変わらない存在でしかない。
    「少し聞いていたのだけど……。今、会社の方はどうなっているんです?」
    「別の会社に経営陣が変わることになっていて、俺達は今後そこでどのようにしようと話し合っている所です。
    だけど通訳の仕事はまだ需要がありますし……」
    「……ロッカートさんの会社ですよね」
    「はい。まあ、うちの機械の技術を医療に応用するとか、そういう事ですよ。ところで。姉が遺した物を
    見ていかれるでしょ? 井藤さんは俺に言いたい事もたくさんあるはずで、俺はその覚悟もしています」
    「そう、ね」
     千春は、ふと庭を見上げた。
     直哉が縄跳びをしている。
     その後ろでそれを見守るように笑っている金髪の少女。
     千春は目を見開いた。
     生気の抜けたような笑顔に、透き通るような肌。
     ミンだ。
     彼女は貴子によく、本を読んでもらっていた。
     千春も何度か会った事はあるが、こちらからの話し掛けに微笑する程度の子どもだった。
     コーデリテ人は、透のように日本人より少し明るい茶色の瞳を持っている者が殆どだが、
     ごく稀に、あの地で採掘される金色の蛋白石(オパール)に近い色の瞳を持つという。
     眼病であり、両親の予防接種で防ぐことが出来るが、生まれた後に手術を行えば視力は得られるという。
    「ミンちゃん……」
     ぼーっと窓の外を見ていた千春に、透が静かに言った。
    「……始めてあなたがミンに会った時、なんて言ったか覚えていますか」
    「生きているの、と言ったわ。でも、あの時とは違う感じが……どうしてかな」
     千春は遠くに居る彼女をもう一度見た。
     ワンピースを身につけた人形のような少女。
    「あんなに、笑う子ではなかったから」
     透が言った。
    「……ミンちゃんは今、いくつになったんですか?」
    「今年で15歳です。小さいですが」
    「……コーデリテの人たちって、とても美しいのね」
    「いや、俺もいつも思うけど、彼らは別格ですよ。金髪にああいう瞳の人って全然居ないんです。
    目も生まれつき弱視なんで。だけどきれいだからコーデリテオパールなんて言われて、
    あっちではかなりモテるんです。うちの母の一族も金髪も金眼も居ない。ミンもロッカートさんも、
    ちょっと特別なんです」
    「ふうん……。なんだか、ズルい」
    「まあ確かに」
    「私が平凡な顔に生まれたからかなぁ。貴子さんも透君も背が高くてきれいだし、ミンちゃんや
    ロッカートさんなんて、本当に映画の世界から出てきたみたい。でも、ロッカートさんはそんな事感じさせない
    くらい優しくて、真面目で、そこがちょっとおもしろい人よね。今日は居ないんですか?
    私、お礼を言わないと……」

    「はぁ、……確かにあの人はなんか面白いですよね。今日も来てますよ」
    「透君の事、良く話されるんですよ。家族同然だって。とてもいい子だ、いい子だよって」
    「え……気持ち悪……」



     やはり、この家は広い。
     千春は思わずため息をついた。
     庭の見える側にだけ取り付けられた窓から相変わらず午後の優しい光が差し込んでいる。
     庭から相変わらず楽しそうに遊ぶ直哉の声が聞こえた。
     前を歩いていく透はただ無言だった。
     千春も声をかけようとは思わなかった。
     かつて貴子から聞いていた彼の荒れ様は、少し聞くだけでもなぜと思ったほどだ。
     葬式の時でさえピアスもそのままで近所の顰蹙をかっていた透。
     雰囲気は変わったが、透はやはり、当時のままなのではないだろうか?
     千春は出来るだけ自分で考えて推測しようと思った。
    「井藤さん、ここです」
     透が立ち止まるので、ぼんやりとしていた千春は彼に一瞬ぶつかりそうになってしまった。
     戸を開けると、コーヒーの香りがした。
     誰かがコーヒーを飲んでいたのだろうか。
    「すみません薄暗くて。しかも、電気切れてる……」
     透はカチカチとスイッチを押した。
    「この部屋は?」
    「作業部屋です。姉の本棚は硝子棚の、それです」
     千春は収められていた懐かしい本にため息をついた。
     学生時代、貴子は女流文学の研究をしていた。
     ウルフの小説が好きで、ここに残された本や研究誌もそれにまつわるものばかりだ。
     車椅子での生活を送るようになってからはまるで本を読まなくなり、そんな話も忘れてしまったような
    無表情をしている事が多くなったのだと透は説明したことがある。
     千春は貴子が日本へ帰国した後の事を殆ど知らない。
    「あれは……?」
     千春はめざとく棚に置いてあった陶器を見つけて指をさした。
    「姉が作ったものですよ」
     透は陶器を取った。
     雲が通り暗くなる室内。
    「これって……」
    「骨壷です」
     透は庭を見ながら話を始めた。
    「鉱山事故を起こしたのは、僕等の両親の会社だったから、責任を感じていたんでしょうね。
    だからせめて、ここで死んでいく子ども達の骨壷を作っていたんです。まだ生きている子どもの分まで全部」
    「知ってる……。コーデリテでは陶芸が盛んで、自分の親の骨壷を息子が作る、そんな風習があると
    先輩はよく話をしていた」
     透は頷いた。
    「作っている間は死を受け入れる時間にもなるそうですよ。俺はそれを知らなくて、悪魔的な行為だって思ってたんです」
     骨壷。
    「これをね」
     透は骨壷にそっと手を触れ、羽で撫でるように優しく表面をなぞった。
    「ずっと撫でていました。これは姉が俺のために作ったもの、みたいなんですよ。
    器とかビアマグとかはよく作ってたけど、焼く前に全部壊してたから、残っているのはこれだけです」
     千春は、骨壷を撫でる透の手を暫く見つめていた。
     彼は今、そんな切なげな人間らしい表情で一体何を考えているのだろう。
     そんな顔をする彼に、正体不明の好意が湧き上がるのを感じた。
     愛憎、というものなのだろう。

    *

     「作業部屋」の外に出ると廊下が眩しく、千春は目を細めた。
     透は無言のままゆっくりと歩いていく。
     ハレーションを起こしたような光の中、ぼんやりと彼が貴子の車椅子を押し廊下を歩く光景を見た気がした。
     応接間を介さずそのまま外へ出るとさらに眩しく、色鮮やかな現実から乖離したような庭に千春は眩暈を覚えた。
     透は千春以上に眩しそうに目の上を手で覆っている。
    「見て見てー」
     ぱたぱたと直哉が走ってくる。
     首にぶら下げた虫かごにはモンシロチョウが入っていた。
    「へぇ。自分で捕まえれるようになったんだ」
     直哉は無邪気に笑った。
     憂いや影とは無縁の優しい表情。
     千春には、それが空元気のように見えた。
     この家に渦巻く、どこか嫌な空気。
     何かメッセージを刻むような音、金髪の少女、広大な庭……。
    「ほら、挨拶」
     透に促されて、はにかみながら「さようなら」と言った。
    「直哉君、あなたに懐いていますね」
     そう尋ねずには居られず、千春は顔をあげた。
     目にくまを作った透の顔。
     よく見るときちんと髭も剃られている。
     葬儀の時のやぼったさは髭も剃らない程余裕が無かったからだったのかもしれないと、千春は今更察した。
     透はあの時、貴子の死に動揺していたのだ。
    「井藤さん、こんにちは」
     ロッカートが廊下をぱたぱた走りながらやってくる。
    「あっ。こんにちは」
     千春は一気に笑顔になる。
    「ロッカートさんもこの間こっちに戻られたんですよね」
    「はい。仁重さんと一緒に。久しぶりの故郷でしたよ。これ、よかったらどうぞ」
     ロッカートは千春に紙袋を渡した。
    「いいんですか、こんなに高級なものをいただいて」
     それは、コーデリテ名物のウイスキーだった。
    「テトゥル蒸留所のウイスキーです。私は一人でも多くの人にこの味を広めたいんです。
    よかったら、ご家族と一緒にどうぞ」
    「ありがとうございます。私もロッカートさんにお土産が……。北海道へ行った時のお菓子と、約束のまりもです」
    「まりも! 覚えてくださったんですね。うれしいです。ありがとうございます。えっとこれ、エサはどうすれば
    いいのかな。水は海水ですか?」
     ロッカートは、透の見たことの無いような笑顔でお土産を受け取った。
    「どうなんでしょうね……植物だからエサは要らない気がします」
     千春も彼にうっとりしている。
    「それもそうですね。ちょっと考えればわかる事を……。あ、いけない、ミンさんを置いてきてしまった……。
    今、仁重さんのご飯の支度をしていると思うので呼んできましょう」
     千春は我にかえってロッカートを制止した。
    「大丈夫です。今度来た時に是非挨拶させてください。言付けだけ……仁重さんにもお願いして、ご迷惑
    でなかったら、また改めさせてください。透君と結構話し込んでしまって……、先に挨拶をしておくべきだったわ、
    ごめんなさい」
     透は息を飲んだ。
     誠心誠意千春とは話し込んだつもりだった。
     もう次回彼女がやってきても自分に話せる事は無いだろう。
    「透君。今日はありがとう。また、お邪魔させてくださいね」
     透は千春とロッカートを門扉まで見送り、嘆息した。



     ミンは夕食のスープを温め直しながら、ロッカートの話をぼんやりと思い出していた。
     昔、コーデリテで事故が起こった事。
     彼と義父は家族を失い、同じく本当の両親を失った自分が養子としてここへ居る事。
     スープがぐつぐつと沸騰しそうになり慌ててコンロを切る。
     エプロンのリボンを締めなおし、お盆にご飯を揃え義父の部屋へ向かう。
     所々軋む廊下を進んでいくと、部屋の中からコツコツと音が聞こえてきた。
    「義父さん」
     ミンは部屋へ入った。
     義父が右手を電鍵に手をそえている。
     ミンに気づくとその手を止め、義父は彼女の顔を見た。
    「夕食か? 今日はなんだって?」
    「ほうれん草のお浸しと、みそ汁、サワラの煮付け」
     やはり苦手な単語を誤魔化して喋ろうとするミンに彼は苦笑した。
    「透はそのまま出かけたのか? あの女性をどうにかしていないといいが」
    「そんなこと……」
     義父はため息をついた。
    「今度あの人が来たらお前も挨拶をしに行くといい」
    「うん……そうする」
    「貴子の事がよっぽど大切だったみたいでね。貴子が死んでからも、何回かうちに来ていたそうだよ」
    「透が断っていたって……」
     義父は眉をぴくりとさせた。
    「ロッカートさんから聞いたのか」
     ミンは頷いた。
    「透はあまり話したくなかったのだろう」
     ミンはベッドテーブルを義父の手前に引いた。
     机に置いた食器を一つ一つ並べていく。
     義父はその所作を見ていた。
    「今日の出汁は特別だしだから、おいしいよ……」
    「ん?」
     義父にはミンの小声が聞こえていなかったのだ。
    「……なんでもない」
     義父はやれやれ、と言った。
    「相手に話しかける時は目線を合わせて、相手に届く声で言わないと伝わらないんだよ。それとねミン。
    なんでもないと、言わなかった事にするのは相手にも失礼だ。いや、聞き逃した私も悪い。もう一度
    教えてくれないかな?」
     ミンは急に恥ずかしくなった。
    「あの……」
     ミンは彼の手元にあった機械に視線をやった。
    「これ、何かなと思って」
    「ああ、モールス信号を打つ電鍵だ。もう壊れて使えないんだがね」
     ミンも覚えていた。
     自分の手癖になってしまう程、ミンはそのリズムに聞きなれていた。
     それは、自分の世話をしてくれていた「お爺さん」が叩いていたリズムだ。
    「お爺さんと同じリズムでしょ?」
    「そうか……」
     義父は唸った。
    「義父さんにとって、お爺さんはどんなお父さんだったの?」
    「頑固だったよ。何を考えているのかわからないくらい無口な男でな。
    家族より骨董品を愛していた。そのせいで母親はどこかに行ってしまってね、
    それでも私をコーデリテの親戚に預けて、コーデリテオパールを探していた。
    母は居なかったが、透と貴子と同じような境遇で私も育ってきたのだよ」
    「コーデリテオパール……?」
     義父は苦笑した。
    「向こうで出たオパールの事だ。それにちなんでコーデリテでは美しい女性の事も、そう呼んでいるんだ。
    もう何千年も昔の話だそうだが、コーデリテ人の祖先は、あの4つの山の向こうから、オパールを持ってやってきた
    という神話のようなものがあってな。となりのホトリの人々と同じルーツを辿っていると言われているんだよ。
    昔はそんな宝石を巡って国同士で争っていた時代もあったそうだが。ロッカートさんは
    歴史に詳しいから今度聞いてみるといい」
     義父は、机の上に置かれた燭台に視線を移した。
     庭で見かけるものと同じ、4本の蝋燭を置くようになっている。
    「ほら。この燭台は今話したコーデリテの4つの山の頂点を見立てたものだ」
     義父は少し笑って、
    「これに蝋燭を挿すと、高さが微妙にバラバラになるだろう。コーデリテ人とホトリ人では、
    山の見える方向が逆だから、同じ燭台でも逆向きなんだよ。あの国で一般的な儀式だ。魂を返す場所と
    信じられている山だ。透の姉も、私の息子も全てあの山に返った。……透の話を聞いただろう」
    「うん。透は、ずっと苦しんでる……」
     義父はため息をついた。
    「優しい子だね。最後の最後で、あの親父もその優しさに救われていたのだろうな」
    「透を、救えるかな」
    「そんな事は考えなくていい。お前は自分の望みの為にこれからを考えなさい。
    いつか、故郷を思い出す時が来たら言いなさい。君はコーデリテ語がわかる」
    「……義父さん……」
    「あぁ。不安に思わなくていいんだ。ちょっと故郷の話をしたくなっただけだ」
     燭台を見ていると、ミンは胸の当たりがムズムズしてきた。
     理由はよくわからない。
     けど、その理由がもう喉の所まで来ている。
    「ミン。ロッカートさんと治療を始めるそうだな。お前はどう思っているんだ。この先、どうしたい」
     ミンは顔をあげた。
    「学校に行きたい、かな」
    「そうか。お前がそう思っているのなら、頑張りなさい」
     頑張りなさい。
     ミンには良く分からなかった。
     胸が気持ち悪いまま部屋を出る。
     「学校に行きたい」それも本心ではなかった。
     直哉の口癖であって、それはミンの言葉ではない。
     だが、思えばこの数年の間にやってきたドリル集は全て失われた数年の間、ミンが健康だったら
    履修しているはずだった科目だ。
     自分はどれくらい遅れていて、どれくらい頑張れば「普通」になるのだろう。
     その後、学校に行ったとして、その先は? 自分は何になりたい?
     ミンには何も無かった。
     都合良く眠っていられたらどんなに幸せだっただろう。



     窓辺のランプの炎が揺らめいている。
     新しい服を胸に抱きしめ彼女は透の帰りを待っていた。
     一瞬眠ってしまったが、またあの夢を見た。
     そんな事よりスープを温めて出してあげよう、透は疲れて帰ってくるだろうから。
     ミンはノートを閉じた。
     周囲は夜の帳に覆われ、頭上では星がいくつかぼんやりと瞬いている。
     いつもと変わらない夜、少し肌寒い風。
     狭い部屋、小さくなってしまったベッドの上に義父がコーデリテから持って帰った服の箱がまだ散らばっている。
     夏の花を思わせる色とりどりのワンピース。
     義父は窮屈そうだと言ったが、着てみるとオーダーメイドのようにぴったりでミンの髪色にもよくあっていた。
     去年の夏物は今の彼女には少し小さくなっていた。
     鏡に写った自分の姿を思い出す。
     初対面の人物と出会ったかのような驚きでは無かったが、何か違うものを見ている気になったのだ。
     あれは自分ではないというような違和感でもない。
     舌の下で錠剤が溶けていく。
     ぼーっとしていく頭を窓枠でもたげながらミンは鼻歌を歌った。
     風が止み、静かな夜はより空虚になる。

     その時、小さな足音が部屋の前を通りすぎていく音が聞こえた。
     透が帰ってきたのだろうか。
     ミンはワンピースをベッドに置いて、部屋の戸を開けた。
     真っ暗な廊下を人影が駆け、ふわりとスカートが翻る。
     何かが張り裂ける音。
     廊下は一瞬で昼間の明るさを取り戻し、そこには見たことのない子供たちが駆け抜けていく。
     彼らが走っていく先には、黄色い花の咲く草原が広がっていた。
     その情景は、いつか見た、ヒマワリ畑に似ている。
     子供たちが持つ大きな籠の中は、それぞれ摘まれた花でいっぱいになっていた。
     花畑の向こうは崖になっている。
     ミンは足がすくんで進めなかった。
     籠を持った子ども達が崖縁へ一列に並んでいる。
     遠くにそびえる4つの山を見つめながら。
     そこに、槍を持った年老いた司祭が現れる。
     彼は、一列に並んだ子供たちを次々と槍で突き落としていく。



     透は義父の部屋をノックした。
    「入れ」
     義父の部屋を開けると、直哉がベッドの脇で絵本を読んでいた。
     その姿は、悠々と落ち着いている。
     大病の後、義父は人が変わったように優しくなった。
     一人残された孫の直哉を可愛がり、姉弟を養子にまでしたのだ。
    「りんごすりおろしたんですけど……どうですか」
    「はいりなよ透ー」
     透がぎこちなくしていると、直哉がお盆を受け取り、義父の元へ持っていった。
    「昨日は遅かったようだな」
     透は小声で「すみません」と言った。
     義父は窓の方を見た。
    「ガーデンサービスは?」
    「午後から入ってもらいます」
    「誰か来るの?」
     直哉が扉の近くに立ったままの透の側に駆け寄る。
    「業者が来る予定だったからな。庭もきれいにしてもらわないといけないんだ」
     義父が答えた。
    「何をきれいにするの?」
    「庭に黄色い花が生えているだろ。あれを刈るんだ」
    「えー。たんぽぽも無くなっちゃうじゃん!」
     直哉の膨れっ面を横目に、義父は少し笑った。
    「庭には何か別の物を植えれば良い。もうすぐそういう時期なんだよ」
     透が言った。
    「しかし暑くなってきたな。今年はコーデリテの方が過ごしやすいかもしれない」
     義父は直哉の頭に手をぽんと置いた。
    「お祖父ちゃん、そんなに薬飲んでて大丈夫?」
     彼は直哉に今まで見たことのないような笑みを向けた。
    「死んだりはしないさ」
     透は義父が直哉とこんなにも柔らかい表情で会話をしている姿を見るのは久しぶりだった。
     追われていなければ本来は穏やかな人なのかもしれない。
     透は彼が毎晩コーデリテ語を思い出そうと単語帳を開いたり現地のテレビを見て熱心に勉強して
    いるのを知っていた。
     あれだけ出来た人がこの数年でここまで追いやられてしまった様子はまさに急な坂道を転げ落ちるようだった。
    「これは皮肉な節目かもしれないな」
     義父はそのままの口調で言った。
    「節目?」
    「鉱山はもう終わりだ」
    「やっぱり、もう義父さんは……エヴァーグリーン社に全てを渡したいんですね」
    「世の中には無くても良い、消えゆくが最善なものもあるものだ」
    その言葉が指すものを透はぼんやりと意識していた。
    民間企業としての鉱山は終わり、参入の色を濃くしているエヴァーグリーン社と
    コーデリテ、ホトリが台頭するという話だ。義父の言葉に、透はまだ自分が曖昧にしか
    ヴィジョンを抱けていないと思った。
     透は働く両親たちが一体どんな気持ちで鉱山と仁重電機という会社を動かしてきたかというのを知らない。
     成人し、義父の元で通訳の仕事をするようになり、取引などを目撃すると、こんな感じなのかという程度で
    自分の心を熱くするような事はなかった。
     透はいつの間にか義父の言葉を変えて相手に話す事すらしばしばだったのだ。
     それが明るみに出ると義父はとても怒った。

    「この5年が私には不気味なくらい長かった。透はどう思っていた?」
    「事故からの5年ですから……。色々な話が出てくるのに良いタイミングだったと思います。
    多くのものを失った人間でさえ、過去の話にしようと動き出しているから」
     義父はますます苦笑した。
    「お前もそうなのか?」
     透は掴んでくる直哉の手を見て、微笑んだ。
     直哉は不安そうな顔をしている。
     天秤を水平にしたいわけでは無いし、釣り合っていようがいまいが、透には殆どどうでも良い事だった。
     ただ心の空虚を引きずったまま何をすべきか、何ができるのかわからない。
     やはり、あの事故から今までで自分が失ったものは、義父の言う通り大きかったのだろうか。
     沈黙の中、透は何を自分は見極めたいのか、これから何がこの先にあるのか悶々とした不安を感じていた。
     義父は自分をこれ以上咎めようとはしないだろう。
    「ミンに、あの機械を使った治療を試すとロッカートさんは言っていた。私はあれがどういう仕組み
    なのかは理解できない。ただ、親父があれによく似たものをいじっていたのは知っている。それがこの電鍵だ」
     透は顔をあげた。
     そこには錆びた電鍵が置いてあった。
     大戦以前の通信手段としてモールス信号、トン‐ツーを用いて利用されていたものだ。
    「お爺さん、何か叩いていましたよね」
    「あれには意味がないんだ。だいぶ前だが、ロッカートさんにその事を教えたら、あっという間にモールス信号を
    勉強して親父が叩いていたリズムに意味が読み取れない事を教えてくれた。だが、親父は毎日のように誰かと
    つながって居たのだろう。妄想の中で」
    「そうなんですか。モールス信号なんて、なんかかっこいいな。すぐに覚えられるものなんですか?」
    「私は詳しくない。彼に聞いてみればいい。ついでに英語も教えてもらったらどうだ。これから先は英語も
    使えないとあの国ではやっていけないぞ」
    「……え、はい」
    「直哉、そろそろ業者さんが来る時間だ。門扉を開けて来てくれ」
     義父の言葉に直哉は嫌そうな顔をした。
    「お祖父ちゃんの言う事、聞きなさい」
     透に追い討ちをかけられ、直哉は頬を膨らました。
    「もういいもん」
     直哉は絵本を抱え、部屋を飛び出してしまった。
    「……直哉の事をどう思う?」
     思わぬ義父の言葉に透は少し驚いた。
    「別に、もう普通だと」
    「しっかり目を掛けてやって欲しいんだ。これからは、得に」
     義父は透に日本に居てもらいたいのだろうか。
     透は俯いた。
    「俺は直哉の親にはなれません。資格無いと思います」
    「はっきり言え。興味が無いのなら」
     そこまで自分は乾燥してはいない。
     だが、ひっかかりを感じた。
    「子どもを遊んでやる事も大分馴れたし、俺に懐いてくれて嬉しいです。
    だけど、どうしても無理だと思うんです。それは俺が、人間的に色々欠けているから……」
     義父は項垂れた。
    「そういう事ではないだろう。お前は目の前から逃げているだけだ。ミンはお前を心配していたぞ。
    お前を救えるかなと、私に相談してきた。そんな気持ちに、まずは報える事だけを考えなさい。
    それに、過去のあの事は、お前の所為ではない」
     透は首を横に振る。
    「違います……俺が最悪なんです」
     義父は、ベッドサイドの杖で、透の顔を殴った。
     それには、ありったけの力がこめられていた。
     透は後ろによろめき、頬を抑えた。
    「いい加減にしろ」
     義父の怒号が響く。
    「いつまでもそんな言葉を吐くようなら、私はお前をここから追い出さなければいけない。
    通訳の変わりなんぞ、誰にでも任せられる。中途半端な子どもを壇上にあがらせるわけにはいかない」
     透は瞬きをせず、じっと一つの光景を思いした。
     思い出してゾクッとする光景は脳裏に焼き付いて消えないものだ。
     そして悪夢も見る。
     だから透は、ミンの前で空嘔吐きが止まらなくなったのかもしれない。
    「ミンは……お爺さんのなんだったんでしょう。どうして、屋根裏に監禁されていたんです。
    それなのに、なぜ普通の精神が蘇ったんです。それはお爺さんの慰み者ではなく、一人の
    人間として情操教育を受けていた証拠ですよね」
     義父は首を横に振った。
    「あの時親父は既に耄碌していた。何が目的でミンを買ったのかもわからない。
    彼女に燗する資料は、あれだけだ」
     透は何も言わなかった。
    「自分をいい加減、許してやれ。私にはお前が、暗い所に止まっていたいだけのようにしか見えない」
     透は頬を抑えたまま俯いた。
     鈍い頬の痛みがまだじんじんとしている。
     が、透にはまるで自分の痛みのようには思えなかった。


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    posted by 小説あらすじ |