• 管理者ページ
  • RSS1.0
  • Atom0.3
  • << 4話:千春 | TOP | 6話:惰性 >>
    5話:転輪機


    *5話*転輪機

     大きな鏡の前に女の子が居る
     鏡の中の自分に口紅を塗り、にこにこ笑っている。
     こっちに来たら、わたしが遊んであげるのに


     今日もよく晴れている。
     自分の転ぶベッドの枠に、新しい半袖のワンピースが掛かっている。
     ベッドから出ようと両足を床に下ろした時、ミンは右足に包帯が巻かれている事に気付いた。
     さらに、それは右足だけではなかった。
     両腕にも丁寧にガーゼが当てられてあるのだ。
     恐る恐る包帯の巻かれた腕に触れてみるが、痛みは感じない。
     ガーゼの当てられた箇所はどこも痛む事はなかった。
     水差しに入っていた水を全て飲み干し、ミンは深呼吸した。
     誰かが夢の中で死んだ。
     それはどういう理由でそうなったのだろう。
     夢の内容を思い出そうとしていた時、部屋の戸がノックされた。
     返事を返す前にそこから現れたのはロッカートだった。
     紫色のストライプのシャツに灰色のズボン。
     ノートを脇に抱えている。
    「おはよう、ミンさん」
     ロッカートは「コーデリテ語」で喋った。
     ミンはその言葉を当たり前のように理解出来る事に少し驚きながら、瞬きをした。
    「理解しているね。透君は私に隠し事をしているようだけど……話してくれないかな」
     彼は笑顔を湛えながらベッドサイドにあった椅子に腰かけた。
     ミンはまだ言葉が出てこなかった。
    「子供は正直だ。そんな正直者の子供に隠し事をして。侵害されるとでも思っているのだろうか……」
     彼は続けた。
    「座っていて。ベッドの上で出来るテストを持ってきたのです」
     ノートが取り出される。
     パラパラと彼がページをめくっている時、部屋に花の香りが漂ってきた。
     ここは別の場所ではなく、屋敷のどこかの部屋なのだとミンは気付いた。
     とたんに緊張がほぐれ、「透は?」ミンは日本語で答えた。
     ロッカートはパッと顔を上げた。
    「義父さんを病院に連れて行きましたよ。直哉君も一緒に」
     ロッカートは少し笑って日本語で言いなおした。
     チェックシートを出し、ロッカートは水銀血圧計をセットした。
    「気分は悪くないですか? あなたはね、大分長い間眠って居たのです」
    「私、怪我を、したの……?」
    「えぇ、だけど、幻の傷です」
     ミンは彼の顔を暫く見つめた。
    「幻の傷……?」
    「こんなものは、おまじないみたいなものですから、外せばいいのです」
     頭がずきん、とした。
     ロッカートはミンの手足に巻かれた包帯や頬のガーゼを外していく。
    「あなたが、これを巻いたの……?」
    「はい。今日は薬を飲んで、安静にしてください。さて、血圧をはかりますよ」
     ロッカートは血圧計をミンの腕に巻きつけた。
     空気が送り込まれ腕が圧迫され、シューという音と共に水銀が降りていく。
    「大丈夫みたいですね。ところで、私が用意してきたテストの事ですが。これは5分くらい、
    私の質問に答えるものなのですが……。無理なようでしたら日を改めます。いかがですか?」
    「平気……」
     ミンは緊張した面持ちのままこくんと頷いた。
    「こんな風に、お爺さんの血圧を計った事もありますよ。物分かりが悪くなっていて、殆ど会話は出来ませんでしたが」
    「そう……」
     少し落ち込むミンに構わず、ロッカートは両手をぱんと叩いた。
    「では、始めましょうか。まずは今日が何日か、わかりますか?」
     わからない。
     大分時間が経っているような気がするのだ。
     ロッカートはミンに外した腕時計を見せた。
    「……二週間も?」
     その時、ミンは急に悪寒を感じた。
    「ミンさん?」
     唇が震える。
    「昨日……不思議な夢をみたわ。誰かがずっと話しかけてた」
    「その内容を、覚えていますか?」
    「……さっきまで、覚えていた、はっきりと。多分、凄く昔に体験した事の一部なの。
    丁度包帯が巻かれていた所が、痛かった。後は暗くて悲しい、そんな印象しか今は残ってない。それで私、
    自分が誰なのかわからなくなっていくの。……思い出せそうだけど……かんがえたくない」
     ロッカートは唸った。
     そして、少し間を置いてにこりと笑った。
    「その間の事は、今のあなたの意識の状態とは違うのです。だから、あなたの不安がそんな状態を引き起こした
    のだと思いますよ。前に言ったでしょう、ぼーっとする感じが薬でよくなった気がすると。もしかしたら、状態は
    一進一退なのかもしれません。もちろん治っていく事の方が多いので、怖がらなくても大丈夫ですよ」
     ロッカートはいつもの優しい表情でミンの頭を撫でた。
    「お帰りなさいミンさん。あなたは私と治療を始めたんですよ。思い出せますか?」
    「うん」
     そうだ。
     義父や透、直哉にも宣言した。
     治療を頑張って自分を取り戻すのだと。
    「……転輪機。これを使って、治療を始めたの」
     ロッカートは頷いた。
     自分の眠っていたベッドの後ろには大掛かりな装置がある。
     今は電源が入っていないようだが、動き始めると中ではまるで無数の時計の針が回るような音がコチコチと聞こえるものだ。
     それを聞いているうちに眠くなっていった。
    「私は……包帯を巻いてと、言ったの?」
    「怪我を負った時と同じ痛みを味わっていたようでした。だからそうしたんです」
     ミンは腕を抱えうずくまった。
    「どうして……」
    「文化病です。コーデリテの人にとって精神的な苦痛は現実味をもって身体に現れることがあるのです。
    向こうでは傷の無い人の治療をこんな風にする事がたくさんあるのです。多くの人は身内がやりますが、
    あまりに痛いんで医師にやってくれと頼む人も多いんです。そのあと精神科にかかる『重傷者』はそのうち
    5%くらいでしたね。大したことが無い人が多いのです。そんなショックを体験した場所にあった柱なんかに
    絆創膏を貼っておく、みたいな事もみんなやってますよ。あっちでは、ごく普通の事です」
    「……私が、コーデリテで生まれたからって事?」
    「生まれ自体は関係ありません。きっとあなたは、なんらかの事情でここに来る事になった前、母親にそうやって、
    慰められたりしながら生きていたからなのだと思います」
    「私のお母さん……か。あなたも、やってもらった事、ある?」
     ロッカートは苦笑した。
    「ありますよ。祖母が亡くなった後、目の痛みがとれずに、暫く眼帯を付けさせられていましたから。
    日本ではあまり聞かないから、やはり文化病なんでしょうね。だから怖がらないでください。
    きっとその痛みは、おじいさんを失った時、貴子さんを失ったとき、ここに居た子供たちを失った時に
    感じた時の悲しみの記憶なのかもしれません。忘れたと思っても、あなたはその時々に悲しみを感じて
    生きてきたのでしょう。それはどんな状態になっても、あなたがあなたであったという正銘でもあるんですから」
    「……おじいさんの事を、悪く言わないのは、あなただけ」
     ロッカートは、まばたきをした。
    「私、おじいさんと二人だけだった時の事、今は覚えていないけど、暖かい気持ちだけは残っているよ。
    透や義父さんが思うような人じゃ絶対無い……ロッカートさんも、そう思うでしょ」
    「ええ、もちろんです。そうでなかったら、今あなたが幸せな筈は無いんですから」
     ミンは少し泣いた。
    「私、治療を続けるよ。もう怖くない……。ここにはみんなが居てくれる。絶対にその事は忘れないから」



     階段を駆け上がる足音が聞こえ、間もなく部屋に透が入ってきた。
    「透君。おかえりなさい」
    「どうも……」
     挨拶もそこそこに、透はミンの座るベッドの側まで進んだ。
     相変わらず仰々しいエヴァーグリーン社製の装置がミンのベッドの後ろに設置され、
     彼女の頭にはヘッドギアがつけられている。
     24時間脳波を記録するものだ。
    「さっきまでちゃんと目を覚ましていたんですよ。以前のミンさん、そのものでした。やはり、治療はまだ
    きついのかもしれません。でも大丈夫です。記憶もちゃんとしていました」
     ロッカートは椅子を出し、透を座らせる。
    「どうして急にこんなんなっちゃったんですか?」
    「ホルモンの影響も、あると思いますよ。身体が変わっていく年でもありますから、急にそれまで無かった
    症状が出始めるという事もあるのです。あなたがコーデリテに戻っていた一年の間に背も伸びましたし。
    ミンさんは、同年代の子と比べて、小さいでしょう。だからなのかといえばわかりませんけど、
    生理が来たのも一年前からだったそうです。今、生理的な大きな変化の中に居るんです。きっとそういう事が
    目覚め、前向性健忘の寛解とも関連しているのでしょう」
     透は血の気が引いていく想いがした。
     包帯の事も、こうして倒れた事も自分の行いが関係している気がするのだ。
     全ては、自分がミンを人間扱いしなかった所為なのではないだろうか。
    「ある兆候のようなものが読み取れるかと」
     ロッカートはテスト結果を透に渡した。
    「それは……?」
    「このスコアは覚醒水準で、脳波を測定したものの平均です。そしてこの縦軸の値を見てください」
     レム睡眠。
     そう言われても、透はよくわからなかった。
     透は一瞬ミンの方を見た。
    「今も夢を見ている……?」
     ロッカートが頷いた。
    「はい。かつての彼女の普段の生活は、私たちが見る夢のような状態の意識レベルに当てはまり、
    あの事故の患者と同じ嗜眠性夢遊病のような状態が見られます。そうそう。普段私たちが夢を見る理由は、
    正しく認知出来るように組み換えを行っているものであったり、過去の記憶の整理をしているからとも言われます。
    だから、彼女が夢を見ているときに介入をする必要があるのです」
    「思い出せるものなんですか? 夢幻状態だった時の記憶を。それこそロッカートさんは今と意識のレベルが
    違った生活をしていたから無理だ、なんて過去に言っていましたよね」
    「その、夢幻の状態の時の事を自力で思い出す事は難しいでしょう。多分不可能です。
    だけど、それに近い目覚める前、もしくはそうなる前の事はもしかしたら思い出せるかもしれない」
     ロッカートは言った。
    「ミンが望んだからですか」
    「望んだから、確かにそれもありますが気になることがあるのです。過去の記憶を思い出せるか否かという事は、
    実は大して重要ではないので、私はそれに主眼を置いていません」
    「……何か別な問題が? 薬の副作用とか?」
    「彼女の健忘症の回復に薬の効果が大きかったのならば、他の患者……ここに居た子供たちも劇的に回復していたはずです。
    たしかに今後そういう心配も出てくるのかもしれません。しかしミンさんにはそういう物は与えていません。
    倒れる前の期間中にショックな事を体験したり、過去の事を断片的に思い出す事があります。
    それは私たちにはイメージ出来ないほどの情報の渦になって流れ込んでくるそうなのです。
    だから、脳がついていけず眠りについてしまうのではないだろうかと。そこで使うのがこのキヨカという薬と、
    このマシンを使った治療です」
     さっきから目についていた仰々しい機械だった。
     それは彼により転輪機と名づけられた装置で、この間彼が日本へ義父とともに来た時に持ち込んだ医療機器だ。
     彼がそれを専門に研究をしている科学者という事は実際にこの機械が稼働されるまでは忘れかけていた。
    「転輪機ですか」
    「はい。これの用途はいくつかありますが、今は第一に彼女の自我を守る事にあります」
    「自我?」
    「ええ。まだあなたには説明していませんでしたね。気になること、というのは、この機械を使うためには
    健康な時から脳の一部を代償して訓練しておく前提があるんです。人によっては逆効果であったり、
    年をとってからでは順応が難しく使いこなす事が出来ないと考えられています。なので扱いはとても難しい。
    訓練の効果を般化させる事も、解釈する能力を養う事もかなり時間がかかる。なのでこの技術は長年放置されて
    きました。そこまでしてこれを私が使う事になった理由、それは、ミンさんはそんな機械にあらかじめ訓練されて
    いたことを知ったからなのです。それこそ私がここへ来て研究と治療を始めた理由でもあります。だから……
    高い効果とデータを得られるのではと踏んだのです。まだこの機械は実の所エビデンスには至って居ません。
    それを感覚として理解できる研究者もまだ少ないため、上司と相談して適応する事になったのです。
    この手の技術は大昔からあるもので、方向性を間違えば即座に洗脳機になる危険もあります。私の理論上、
    いくつかこれから流れる信号を逆にするだけで、そのような使い方も簡単に出来てしまいます」
     いつもとは少し様子が違うロッカート。
     きもち早口に、急かされるように話している姿は、ただの医師ではなく彼が科学者だったことを思い起こさせる。
    「じゃあ、ミンの健忘症はその機械が原因なんですか?」
    「断言できませんが」
    「まさか、ここに昔居た義父さんの父親のお爺さんが……」
     ロッカートは真顔のまま窓の外を見た。
    「何を理由にそうしたのかはわかりません。だけど、彼は電鍵を持っていた」
     電鍵。
     ふと思い出されるあの錆びた道具。
     お爺さんが辛うじて生きていた時、話も出来なくなっていた彼が死ぬまで打ちつづけていた信号があった。
     ロッカートがその信号には、言語的な意味が読み取れないという事を義父に伝えたとも聞いている。
    「古いタイプの転輪機に見られたもののようで、お爺さんが手癖のように叩いていたリズムは、
    まさに彼女から得た信号だったという事が、やっと彼女とのセッションで判明しました。あれはモールス信号
    ではなく、ある種の脳波を意味したものだった」
    ロッカートは診療鞄から新品の電鍵を出し、プラグを装着した。
    「……どう、結果を解釈したり理解するものなんですか?」
     透が尋ねる。
    「当てにならないことにかつては感覚でした。今は機会からデータが出てきてある程度それを読んで
    解釈するんですが、機械と同期出きることが前提です」
    「同期……人間の脳を機械の脳のようにするって事?」
    「はい。その通りです。機械からの信号を受け取る力を身につけるということです。それが私がさっき言った
    脳の一部を代償するという事で、何も特別な手術が必要なものではありません」
     透は想像したがだまり込んでしまった。
    「……共感覚ってご存知ですか?」
    「なんです?」
    「私がそうなんですが、文字や音に色を感じたり、とにかく一つの感覚に別の種類の感覚を伴うものです。
    私がたまにサングラスをかけたり酒を飲むのはその感覚を紛らわせるためなんです。疲れると目を開けている
    だけで頭痛がするので……。といっても、目を閉じて真っ暗になる事はないですが。私の見ている世界は他の人より
    無秩序なんだと最近は思えるようになりました。で、これは目を閉じて使うんですが、
    そういった感覚の全てがより精緻化され」
    「あの……。お爺さん時代から似たような機械は見てますし、ミンは訓練をされていた、それには納得なんですが、
    その後、結局これでどうなるんですか。なんの効果があるんですか」
    「きっと、自分を取り戻します」
     ロッカートはきっぱりと言い放った。
    「こちらからその機械で働きかける事で……?」
    「うん、ちょっと語弊がありますね。今までの何回かの同期で、彼女が反応しやすい鍵となる信号が得られました。
    その信号を出して、彼女の反応が得られた瞬間に」
     ロッカートは「転輪機」のハンドルを指さし、回すジェスチャーをした。
    「……回して、どうなるんです?」
    「さらに強い反応を誘発します。その瞬間に見た夢が彼女の抱える深層の問題なのです。それを引きずり出すの
    だから、使い方を誤ればその人の人格を破壊する危険もあるのです。だけど私がやろうとしているのは逆回転。
    既に引きずり出されてしまっている状態のものを、丁寧に巻き戻して、元ある状態へ戻していくイメージです」
     透は怪訝そうに首を傾げた。
    「はあ……」
     ロッカートはカバンから何やらチューブのようなものを取り出した。
    「なんですか?」
    「へその緒です」
    「は?」
    「これを奥歯で咥えます。そして、こちらの接続部分を機器に。反対側はミンさんが咥えます。
    機械とミンさんの間に私が入って、緩衝するのです」
    「かんしょう?」
    「こうすることで、最低限のダメージで済むといった仕組みです。これも感覚の問題ですがね」
     ぽかんとした透に構うこと無く、ロッカートは続けた。
    「私は、一年かけてこの装置に体を慣らす訓練を行っていました。最初はよく気持ち悪くなって寝込んでいた
    ものです。だけど、どうしても完全とまではいかない。そして今回完成したのがそれをもっと効率よくする
    素材で作ったこれなのです」
    「急によくわかんなくなったんですけど」
     透はそのチューブを指で摘んでみた。
     何やら弾力があり、光沢のある素材で作られている。
    「へその緒の細胞で出来ています」
    「はぁ?」
    「私の」
    「う……」
     透が急に手を引っ込めるのでロッカートは苦笑した。
    「気持ち悪がらないで下さいよ。実家の蔵から探し出すのは大変だったんですから。あなたも使ってみますか?
    もしもへその緒が残っていれば、作って差し上げますよ」
     ロッカートは自慢げに言った。
    「で、それを咥えて機械に繋いでミンの事がどう分かるというわけなんですか?」
    「感覚量の変化を計測するという事なんです。対数に比例するっていう例のアレです。そういう装置だと思ってください。
    それとね、もしも、大きなものに触れてしまった時、私の方に半分その波が来るので、彼女自身のダメージを
    減らせる事が出来るんです。どんな夢を見ていたのとかはさすがにわかりません。こればかりは彼女を起こした
    後にその時の感覚を口で説明してもらうしか方法はありません。近々きっと大きな感情の波のようなものが
    来るはずなんです。自分の認知の枠組みでは、今まで処理した事のないような形で。あと何回か……
    間欠期間から目覚めた時には、ミンさんはきっと元に戻っているでしょう。それが私の理想の治療の終わりです」
    「ミンは、それに触れる事を望んでいるんですか?」
     ロッカートは首を傾げた。
    「透君。私もミンさんがとても大切です。だから彼女の望む世界を少しでも見せてあげられたら。
    そうは思いませんか? つらいことよりも、楽しいことの方がこれからはきっと多いはずです。彼女はね、
    これから沢山勉強をして、大人になって、社会に出て行く義務があるんですよ。あなたの愛は、彼女を
    ここに閉じ込めておきたいというような臆病なものに見えます」
    「俺は機械の事に疎いけど、そういうのって凄く危ない気がするんです」
    「そうですね。その間の時間がどれほど苦痛を伴うものなのかは間欠期間の彼女を見ていても想像の余地もあります。
    彼女が目を覚ました後聞いてみる事でも確かめられるでしょう。そして、この治療の終わりはいつからか、それは私にも
    あなたにも決める事は出来ません。ミンさんが決める事ですから。もう彼女はそれが決定出来ない年ではないでしょう?」
     透が口ごもると、ロッカートは目を細めた。
    「あなたは明るい場所が眩しいのですね」
     ロッカートは同じ表情のまま薬袋を透に渡した。
    「あなたにも薬を出しておきました。これで少しは外が眩しくなくなります。問題は自律神経ですから。
    ちゃんと、あなたも調子を整えてください。このままではあなたも、壊れてしまいますよ。
    あなたは心の中では全てを理解できているし、認めている。ブレていたものが固まって、元通りのあなたに
    なるのも、時間はかからないでしょう」
     透は薬を受け取った。
    「飲み方はいつもと一緒です。必要だと思う時に飲んで下さい。ただ、沢山飲んでも薬の効果が
    強くなるわけではありません。あなたにとっては副作用こそ目的なのかもしれませんが。
    あと、ミンさんのヘッドギア……かわいそうかもしれませんが今日はまだ外さないでくださいね。
    彼女が応答してくれる刺激を探しているので」
     透に微笑むと、ロッカートは転輪機の手回しハンドルを外し、往診カバンの中にハンドルと血圧計をしまった。
     そのまま部屋を出て行く。
    「待ってください」
     廊下の前で透はロッカートを呼び止めた。
    「なんでしょう」
     彼はいつもの穏やかな表情で振り返る。
    「俺、いつもあなたにそうやって言いくるめられてる気がするんです。説明もなんだか全然よく分かりません」
     透は言った。
    「……悪いけど、もう私は半分以上医者ではないし、あなたには家族くらいの親しみがあるので、こういう言い方で
    せめる事になりますが、一つ。あなたも、勉強をして下さい。教えられる事なら私も教えます。
    機械を使った介入に疑問があるようなら説明もしますし、いつでも中断する事も出来ます」
     働きに日本へ来ている。
     その片鱗を見た気がした。
     その瞬間、透は形容できない苛立ちを感じた。
    「ミンがおかしくなっちゃったら、責任は誰がとるんですか」
     ロッカートは目を丸くしたがすぐに真顔に戻り、「もちろん私が」と言った。
     全ての覚悟ともとれるハッキリとした口調だった。
     透はロッカートの残した「テスト」の結果を見た。
     それにはミンが倒れ人形のようになっていた間(ロッカートは間欠期間だと言っていた)彼女に毎日施されたものだった。
     難しく、読み取りや解釈には時間がかかるだろう。

     透は紙を置き、ベッドサイドの椅子に座った。
     こんなことは、半年の間一度も無かった。
     順調に回復し、普通の人間と同じようにミンも生きていく事が出来ると思っていた。
     こうしてわけのわからない機械で身体を調べられ、そこまで管理する必要があるのだろうか?
     この大掛かりな機械に似たものを、透は昔一度だけ見たことがあった。
     ロッカートが作業をしている間、透は中に入る事が出来なかった。
     禁止されていたわけではないが、自分の知らない間にデータの計測やら治療は終わり、何をどう
     操作しているのかはよく知らない。
     自分は何も、わかろうとしていなかった。
     ロッカートはきっとそれを言いたかったのだ。
     透は椅子に腰かけたまま、何時間もその間ぼーっとミンを見ていた。
     その間も機械が動く音は続き、時々ミンは指先をピクピクと動かしていた。




     壊れた電信機が叩く音は風音に飲まれ
     虚しさの余韻だけが滞り
     やがてその空間を蝶が舞う



     古びたコンクリートの壁と薬棚がぼんやりと視界に入る。
     カーテン越しの光りは眩しくミンは目を細めた。
     顔を背けながらミンは体を起こした。
     木製のサイドテーブルの上には水差しとコップが置かれている。
     薬棚の横の時計は大分古いようで4時半をさしたまま止まっていた。
     部屋は暑かった。
     真横のカーテンを開けると、下方に庭が見えた。
     キンポウゲはいつの間にか全て刈られ、芝生も短く揃えられている。
     ここは屋敷の二階だ。
     すぐ後ろで、空気が入ったり抜けるような音がした。
     何かと思って振り返ると、そこにはぎょっとする程大きな台形の装置があった。
     これはロッカートと始めた新しい「治療」だ。
     一階のミンの部屋には、この大掛かりな機械は入らないから、二階の客間を使う事になった。
     確か、今回もいくつか電極を頭に取り付けて何かを計っている間に、眠ったのだ。
     機械の方へ回ってみる見ると、電源だけが入っているようで内部で歯車が回る小さな音が聞こえていた。
     床にノートパソコンも置いてある。
     そして、コーデリテ語で書かれた手書きのマニュアルのような冊子。
     パソコンの上に弾力のある素材で出来た細長いチューブがある。
     チューブの先を咥えるように指示をされた。
     そしてこの中間から分岐している部分をロッカートが咥え、片方は機械に繋がっていた。
     一瞬ビリッとした刺激があったが、それ以降は何も感じず次第に眠ってしまったのだ。

    「ミン」
     ミンはうっすらと目を開けた。
    「おはよ……音がしたから起きてるのかなって……」
     透だった。
    「うん。もう、私大丈夫な感じがするの」
    「そう……ずっと起きていられる?」
    「うん。そうだ、義父さん……病院に行ったって……ねえ、大丈夫?」
     ミンがベッドから出ようとすると、透は「いいよ」とミンを制止した。
    「ちょっと頭痛がするっていうから、病院で検査してもらったんだ。今はもう帰ってる。
    普通の風邪症状らしいから、大丈夫だよ」
    「良かった……」
     ミンは笑顔を作った。
     久しぶりの生きたミンだった。
     目覚めの一言目が義父を気遣う言葉だなんて、と少し拍子抜けする気持ちになった。
    「透、髪切ったんだね」
    「伸びっぱなしで義父さんにだらしないって言われて。でも失敗だよ。寝てる間にまさか刈り上げに
    されるなんて……」
    「似合うよ」
    「そうか? なんか直哉とお揃いになっちゃって、ぱっと見親バカだよな」
    「だけどそっちの方がいいよ」
     ミンは透の首筋の方まで刈り上げられた髪を撫で上げた。
    「ピアスも外したら?」
    「俺のアイデンティティが失われる」
     透は自嘲するように笑った。
    「どうしてそんなにたくさんつけてるの?」
    「人に迷惑かけた分だけ開けてるんだ。今日もまた後で一つ開けないとね」
    「そんな……」
    「冗談だよ」
     ミンには冗談に聞こえなかったかもしれない。
     実の所透にとって、これは戒めに近い理由があった。
     増えていくうちにどうでもよくなってはいたが。
     透は小さく「ごめん」と言った。
     それから、二人共少しの間話さなかった。
     この間は、居心地の良いものではなかった。
     ほんの短い時間の中に、お互いの腹中を探り合うような。
     ミンは透に提供する話題すら見つからず、黙っている。
     最後に透がミンと話したのは、三階の暗い物置部屋。
     葬式が全て終わった後の、あの時間だった。
     姉が死んだ日でさえ泣く事が出来なかった透が、あの日涙を流せたのは、きっとミンがそれまで
    真摯に、自分の自慰行為に付き合ってくれていたからなのかもしれない。
     なんという裏切りだろう。
     その日から、少しずつ理由のわからなかった感情や罪悪感に名前がつき、寝つきもよくなっていた。
     透はミンに「ありがとう」と言うはずだった。
     なのに、どうしても上手く言えない、その言葉がなぜかすっかり引っ込んでしまった。
     その理由が、「自分を目の前にして目覚めの一言めが義父の心配だったから」だとしたら自分は小さすぎる。
     やはり自分にはまだ、所有欲があるのだろうか。
     自分の彼女に対する愛は、その目的は、彼女を手名づけた後、手篭めする事にあったとしたら──。
     透はうんざりして、心の中でため息をついた。
     正直、ミンを目の前にして思う事はそれまでと変わらなかった。
     今でさえ、思考が然程まとまってもいないのに礼など出来るはずが無いのだ。
     息をつき、透はビニール袋からペットボトルのお茶とサンドイッチを出した。
    「ツマガリでサンドイッチ買ってきたんだ。あそこのパン、直哉も好きだし」
     透はミンにサンドイッチを手渡す。
    「うん、食べる。じゃあ一緒に食べよっか」
    「俺はまだいらない」
     明るい未来、将来……。
     ミンに待っている新しい世界。
     彼女がサンドイッチを頬張る様子を眺めながら透は漠然としたものを思い浮かべていた。
     外をろくに知らないこの少女は、この世界でどうやっていくのだろう。
     自分さえどこへ落ち着くのか想像出来ないのに。
    「透、あのね」
     俯く透の顔を覗き込むようにしながらミンはにっこりと笑った。
    「透のお姉さんの事思い出したよ。夢を思い出そうとしていたら、思い出せたの」
     それは予想もしない内容だった。
    「ねえちゃん……?」
     忘れかけていた姉ということばに思わず声が裏返る。
    「透がここで、お姉さんを椅子に座らせて、足を洗ってあげていた。アロマオイルも垂らしてあげてたよ」
    「そう」
     透は少しやさしい表情になった。
    「姉ちゃんはミンの事、大好きだった。ここに初めて来た時から、妹みたいに可愛がってた。
    動けなくなってからも、ミンに本を読んでた」
    「うん。夢の中で私、絵本を読んくれた。それに、すごくいい香りがして……これは夢じゃないって
    思ったの。暖かくて、とても幸せな気持ちになった。こんなにはっきりとした夢を見るのは、初めてなの。
    いつも漠然としたイメージだけが起きたとき、残っているから。だから、思い出せて幸せな気持ちになった」
     ニコニコと話すミン。
    「よかった。そういえば、明日はロッカートさんと治療する日だっけ?」
    「うん」
    「やっぱり俺も食べる。それを見たら腹が減ってきた」
     ビニール袋からハムサンドを出すと、透はそれを大口で頬張った。
     ミンがその様子を見て大笑いする。
    「そういえばお姉さん……骨壷を作ってたよね。ロッカートさんと、仲良かった」
     透はハッとした。
    「覚えてる?」
     ミンは、沈んだ声のまま「少し」と言った。
    「あの作業部屋に入った時、ロッカートさんも教えてくれた」
    「いいよそんな事思い出さなくても。まぁ、食べて」
     サンドイッチを食べ、ミンは口に水を含んだ。
    「一緒に食べると美味しいね」
     透は少し笑った。
     なぜだが急におかしくなったのだ。
    「おいしい、そっか。クリームサンドも買っておいた」
    「これも好き……」
     ミンはサンドイッチを口にした。
    「何か今、気になる事とか無い?」
    「……お庭のお花……枯れてない? さっきからそれがずっと心配だったの」
     透は頷いた。
    「ミンは毎日朝の10時と夕方の4時に……不思議なんだけどちゃんと外に出て水をあげていた」
     ミンは驚いたような顔をして、自分の腕を抱えた。
    「覚えてない……、いつも私がやっていた事だから……?」
    「習慣だ。強く脳に残ってたんだ。別に変な事じゃない。今起きてる時とは、意識の感じが違うって前に
    説明されただろ。不思議だよな、人間の脳って……。義父さんだって脳梗塞の後、暫く意識がおかしかったって
    いうし、言葉も出なかったんだ。今でこそ回復してる、そういう不思議な事が人間には色々あるんだよ。
    そんな事より俺は、こないだまでのミンに戻ってくれて安心した。あれからあのままだったから、ちゃんと謝りたくて」
    「昨日……ううん、二週間も前なんだよね、……透?」
    透は少し目に涙を溜めているようだった。
    「最近、涙もろくってさ……。あの日から、ちゃんと涙が出てくるようになったんだ。俺も安心したんだ。
    ごめん、ミン。夜中……ユッカの葬儀の前日あんな事して。悪いのは俺だけなのに、お前も悪いみたいな言い方して」
     ミンは俯いた。
     そうだ、忘れていた。
     眠る前の日々が徐々に蘇ってくる。
     この半年の間、いろいろな事があった。
    「今までのことを心の傷にしないで。私は透を許すよ」
    「許す……今まで……本当の所、どんな風に思っていたの……?」
    「本当はね……」
     ミンは小さな声でつぶやき始めた。
    「透に触られて嫌だと思う事なんて、一度もなかった」
    「……」
     ミンは透の近くに身を乗りだす。
    「小さい声で言うね」
    「……」
    「私の体、綺麗になっていく感じがして、幸せだった」
     透はミンの頬から手を離した。
    「ミン……俺は……」
    「これは、あなたがどう思っていたとしても関係ない。私の気持ちだから」
    「関係なくなんて無いだろ。そんな事言われたら、俺はお前を本当に……」
    「うん、わかった」
     ミンは目を閉じた。
     待っているような仕草にも見えた。

    ──そうか、彼女は、俺が泣いた理由を、そんな風に解釈したんだ。
      どうすればいい。

     ミンに対して適当な想いで過ごしてきた数ヶ月。
     透は殆ど何も考えていなかった。
    「俺にとっては、ここで見る景色は眩しくて、色で溢れてる。眩しすぎる。俺は、最悪なんだ。
    それに俺は、ミンの事、……最初から……」
     透は言葉を飲み込んだ。
    「透は優しいよ」
    「いや」
     いや、なんなだろう、その後にどんな言葉を続けるつもりだったのか、彼はわからなかった。
     言葉など初めから用意されていなかったが。
     だから本音を呟くしか無かった。
     この間、義父に殴られた時と、同じ事を言っている。
    「どうして最悪だなんて言うの?」
    「 じゃあどうしてお前は幸せだって言える? なんで俺が優しいと思うんだ……?」
     その時、透は自分の心臓の鼓動の音を聞いた。
     ミンの答えが、怖かった。
     それこそ、殴られる以上の痛みを味わうことになるのかもしれない。
     透はその問いかけを、一瞬後悔した。

    「私はあなたしか知らない」


    次のページへ

     
    posted by 小説あらすじ |