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    6話:惰性
    *6話*惰性


     透は水をはったタライに足を入れ、縁側で二人が遊ぶ様子をぼーっと見ていた。
     燦々と降り注ぐ太陽が、ビニールプールの水にきらきらと反射している。
     むわっとした土の香りと蚊取り線香の匂い。
     直哉がミンに水をミンが直哉に水を掛け遊んでいる。
     二人とも透が買ったビニールプールと新しい水着に大喜びだ。
     ミンはその上から上着を羽織っているが。
    「飛行機やってー!」
    「うん、出来るかな……」
     ミンは直哉を横に持ち上げ踏ん張ってみたが、すぐに限界になり二人ともプールの中に転んでしまった。
     直哉が大笑いしてもう一回をせがむ。
     ミンもやっぱりまだまだ子供だったんだな。
    「直哉重たいから私には無理だよ。透にやってもらって」
    「透ー! こっちにきなよ」
     直哉が透の方を振り向き手を振った。
    「はいはい。一回だけな。そろそろミンは上がりな。反射した光が目によくないから」
     ミンはもう少し遊びたかっただろう。
     残念そうにしながら「うん」と言ってビニールプールからあがった。
    「じゃ、私スイカ切ってくるね。ロッカートさんのお土産」
    「いいね」
    「ぼく3個食べる!」
     ミンは髪を絞りバスタオルで体を巻くと縁側から勝手に入っていった。
     義父が与えた透への猶予の時間は永遠と感じるほど長く、そして短くもあった。
     彼にとっては昼は長く、夜はとても短く感じるのだ。
     だが、こんな日は時間の感覚も曖昧になり、ミンの言う夢幻の状態に身を投じているような
    幻影を見せられているそんな不思議があった。

     それから直哉は昼下がりまで遊び、夜はいつもより二時間も早く眠りについた。
     夜尿はぴたりとおさまり、一時的なものだったようだ。
     ミンの「間欠期間」には困惑していた様子だが……。
     ミンが洗濯物を片付けていると夕方少し留守にしていた透がひょっこりと帰ってきた。
    「ミン、直哉と遊んでくれてありがとう。助かった」
    「ううん、私も水遊びしたかったんだ。ねえ、もう直哉寝ちゃったんだよ」
     直哉の寝顔を確認すると、二人はいつものリビングへ向かった。
    「直哉、喜んでたな」
     透は携帯電話を少し見てテーブルに置いた。
    「義父さんも入院してるし、寂しかったのよ。あんなにはしゃいでるところ、久しぶりに見た」
    「義父さん家に居ないことが増えたよな」
    「そうだね。暑くなってからは元気が無いね……」
     透は虚空を見つめていた。
     彼も、出かけている事が増えた。
     昨日は朝に帰ってきたようで、今は目の下に隈を作っている。
     どうせ聞けない場所だ。
     それに歯がゆさを感じつつもミンには出来ることなどなかった。
    「透もここで遊べばよかったのに」
    「そうだな。でも俺は夏の日差しが辛くて」
    「夜遊びしてるからだよ。そういえば、透がこの水着買ってくれたの?」
    「うん。プールのついでに……いや、プールをついでに」
     透がおどけた調子で言うのでミンは苦笑した。
    「サングラスを買ったらもっと遊んでもいい?」
    「さあ、ロッカートさんに聞いてみたら? 今の治療に影響が無かったらいいと思う」
    「私もまだ遊び足りないなぁ……」
    「それはそうと、昼間どうして上着を脱がなかったんだ?」
    「え」
     ミンは虚をつかれ一瞬上ずりながら答える。
    「日焼けしたくなかったんだ。赤くなってヒリヒリするから」
     その様子を簡単に見抜き、透は眉を寄せた。
    「いつでも、俺に身体を絶対に見せないようにしてる」
     透の声色にはどこか怒りが含まれていた。
     透はその部分を見た事が無い。
     「飯事」のルールにもあったようにミンの服を脱がした事がなかったためだ。
    「見せたくないの。傷があるから」
    「傷? そんなもの気にする事じゃないのに」
     透の言葉に、ミンは辛そうな顔をするだけだった。
     ミンは自分の胸の傷のある所を拳で抑えた。
    「傷なんてとっくに消えている。全然痕にもなっていない。大丈夫だ」
    「汚いから。透には絶対嫌なの」
     ミンが言い終わらないうちに、透は彼女の腕を取りシャツのボタンに手をかけた。
    「触ったことあるからわかる。そんな傷は無かった」
     あっという間に脱がされ上着が床に落ちる。
    「やめて透、大声を出すよ。ひっかくよ、噛みつくよ」
     透は苦笑した。
    「じゃあそうしてくれ。同じ傷をガリッとつけておあいこにしよう」
    「バカな事言わないで。ロッカートさんに言いつけるよ……」
     ミンは全くと言っていいほど抵抗しなかった。
     透は手を止めず、彼女のブラジャーのホックを外して胸を露にした。
     小ぶりな二つの乳房には傷など無かった。
    「綺麗だ、綺麗だよ」
    「透なんて絶交だ……。約束だったのに。バカ、スケベ、ロリコン」
     ミンは無感情につぶやきながら俯き、両腕で身体を隠した。
    「だけど本当に綺麗だ。傷なんて一筋も無い」
     透はミンの腕を開かせ露になった胸にキスをした。
     ミンはひゅうっと息を吸い込んだ。
     空いた手で反対の胸の形を味わいながらキスを続ける。
    「透……」
    「世界一綺麗だ」
     透はミンを抱き上げ、部屋の電気を切り泥棒のように庭に出た。
     服を着たまま、音を立てないようつま先からゆっくりとビニールプールに入ると、中は昼間の
    日光で十分温まったままだった。
     月夜だった。
     月は雲で隠れてはいるが、僅かな光にミンの陶器のような上半身が浮き立っている。
     ミンはもう身体を隠さなかった。
     すっかりといつもの大人しい表情に戻り、透をその金色の瞳がぼんやりと見つめている。
    「どうして傷があるのか、忘れちゃった」
     ミンは平然と言った。
     そして自分の傷の部分に指を触れ、ふう、と息を吐いた。
     透は彼女の触れた部分をなぞり、その胸を手で包んだ。
     プールの水よりも冷たく柔らかい素肌。
     ミンは身じろぎもしない。
    「もともとそんなものは無いんだ」
     ミンは目を閉じた。
    「透、さっき透は私の下着なんて、なんでもないようにむしり取ってしまったけど」
     ミンはそこまで言うと両手で自分の顔を覆った。
    「ごめん、俺もムキになっちゃって。ルール違反だな」
    「そうだよ透、酷かった。ああいうの、凄く嫌だ。一生分恥ずかしかった。
    明るい場所で裸にされて、見られたくないのに、見られて、キスをされて、驚いたよ」
     彼女の口調は至極穏やかだった。
     逆にその様子が透を不安にさせた。
     ひどく傷つけてしまったのではないか。
    「すみません……すみませんでした……。で、でもミンちゃん全然抵抗しないし、いいのかな〜って……」
    「そうだね」
     ミンはいたずらっぽい表情で苦笑した。
     すっかり大人の表情になっている、透は思った。
    「それにしても、色々あったよね」
     ミンは言った。
    「こう思うんだ。色々な偶然が重なったの、良い事も悪いことも色々あっての今だから、いいんだって」
     今度は透が何も言えなくなった。
    「透が頑張ってる全部の事はしらないけど、偉いよ」
     風が流れる。
     しばらく無言の間が続く。
    「最近、なかなか帰れなくて悪かったな」
     ようやく透が言った。
    「思い出せるだけの人へ会いに行って謝って来たんだ。半分は案の定俺の事なんて忘れていた。
    その半分は昔のままか、謝っても許してくれなかった。どれも俺に似た糞野郎に利用され、利用しあいながら
    孤独を埋めて生きてきたような人だった。途中で気づいた。そんな謝罪巡りには意味が無い。
    許されて安心したいだけだった。なら、どうすればけりをつけられるのだろう……」
    「……透」
     ミンは透にキスをした。
     透が驚いた隙に体を寄せ、もう一度、少し唇が触れるキスをした。

     あれだけ罪を重ねた自分に、こんな甘美な時間が与えられるなんて、透は思わなかった。
     否、ミンが抵抗しなかった時点で期待はあったが。
    「くすぐったいな」
     透はミンの肩に手を回し、キスを返した。
     さらに繰り返し、貪欲なキスを。
     ミンにぎこちなさはとうになかった。
     どうして彼女は自分の体を触らせる事を許したのだろう。
     理性が忘れ去られてしまいそうな感覚の中、透は声を聞いた。
    「それはきっと、今にあるんだよ」
     ミンが言う。
     透から顔を一度離し、にっこりと笑顔を作った。
    「今から変えていけばいいんだよ、きっと。私、ここに透が居てくれるだけで嬉しい」
     透は何も言わない。
    「あははっ」
     ミンは急に笑い出した。
    「すごく嬉しい。こんなに嬉しい気持ちになるの初めてだよ」
    「え……?」
    「綺麗だよって、言ってくれた。あんなに何回も。本当はね、笑いをこらえるのが大変
    だったんだ。世界一だなんて……そうしたら、傷の事なんて何てくだらないんだろうって、すぐにそう思えた」
     ミンはくすくすと笑いながら泣いている。
    「そんな事か」
     透は、半分聞き流しミンのお腹を撫でたりしながら頷いた。
    「そんな事なんかじゃないよ。私にとっては本当に大切な事だったの」
     透の手が止まり、だらんと水中へ落ちる。
     ミンにとって、今のキスはただの感情の高ぶり、勢いだ。
     こうして改めて見下ろすと、どう見ても少女だ。
     あどけない少女の裸体。
     病気の症状が寛解して、人間味あふれる表情が増えてきたからこそ感じる。
     彼女は人形のような少女だと透は思っていた。
     だけどひとたび気がほぐれると、立派に人間だ。
    「あはは、笑いが止まらないの。透、どうしてこんなにおかしいのかな」
     彼女はこんなにも笑う。
     ケラケラと、目に涙を溜めながら、息を乱して。
     生きている。
     年相応の。
     幼い。
     これから成熟する。
     間違いなく、本当の穢れを知らない一人の少女。

     ――俺に汚されつつある、ただの、一人の少女だ。

    「俺はどうしたらいい? 何をするのが正解なんだ?」
    「どうしたらって? やりたいことをするのがいいと思うよ、だから今、私は笑っているの。あぁ、直哉が起きちゃう」
     ミンはまだお腹を抑えて笑っている。
    「……俺がやりたいことは最初から一つだった」
    「なあに?」
    「初めてだったろ、お前からキスしてくるの」
    「……そうだね」
     ミンは急に冷静さを取り戻し、赤くなった。
    「俺は純純な女の子をただ従わせたかった。人形遊びがしたかった。
    お前とセックスしてみたかった。いつでも出来るんだ。それ以外何も無い。
    だから自分からそんな事、もうしないでくれ」
     透は言った。
    「そうしたら俺はお前の家族にも、恋人にもなれなくなる。過去も今の罪も
    関係ない。その瞬間、全て壊れてお前も俺も、あいつの言ったずくずくの海に
    溶けてしまうんだ。そうなったらもう戻れない」

    「透……?」

     いくら透の事を真っ直ぐに見つめようとしても無駄だった。
     彼の身体に跨ったまま見たのは、過去を見つめる空洞のような瞳だった。
     雲の合間から差し込んだ月の光に自分の胸の瘢痕が照らし出される。
     だが、透は傷を見ていない。

     見ようとしていないだけなのだ。


    *

     井藤千春は路地裏を歩いていた。
     駅前で買い物を堪能し、適当な場所で食事をとって帰る事にしたが、
    このあたりはまだ8時前だというのにもう暗い。
     人通りは無いわけではないが、なぜだか湿って空気の滞ったような感じがした。
     短いスカートを履いた女とすれ違う。
     それを引き金に、千春を奇妙な気持ちになった。
     何度通っても、こんな所に通う「彼」の気持ちがわからない。
     通りすぎようとしていたショーウインドウのガラスにうつった自分の姿に苦笑しながら、千春は呼吸を整えた。
     その店、「ダイニングバー・ヨーシュ」は暗い路地裏にひっそりと現れた。
     洗練されるでも、無骨というわけでもない主張に拘りの無い外装はむしろ入りやすい雰囲気さえある。
     千春は、勢いを殺さないうちに店の扉を開けた。
     ベルがなり店員が出てくる。
     まだがらんとしていた広いカウンターの隅に千春を誘導した。
     照明の落とされた薄暗い店内に流されたジャズはマスターの趣味だ。
     現れたマスターは多少無骨な感じだが、苦手ではなかった。
    「久しぶりだね、今日もハイボール?」
    「お願い」
    「やっぱり君、彼の事が気になる? たまにこの時間に来る、彼」
    「……え」
    「見てただろう。最近は来る回数が減ったかな」
     透が来ない事を知っていたから、今日は促されるままカウンター席に座ってみたのだ。
     千春は少し黙っていたが顔をあげた。
    「理解したかったんです」
    「理解?」
    「……このお店に来ている人って、何か色々抱えているような感じが多いですよね。だから……」
     マスターは微笑した。
     いつも透は、千春が自分の酒を空にする前にもう一杯ビールを水のように飲み干し店から出て行く。
     薄暗いせいで、テーブル席の端に座る千春は透に気づかれる事は無かった。
    「彼にも事情があるのだろうね」



     目の前に出されたハイボールの氷が少し溶け、からんと音を立てた。
    「いつも強いのを飲んでいくからね。何杯も身体に悪いから、こないだ心配した
    うちの子が薄めてやったらしいんだけどすぐ気づかれて、酷く怒っていたな」
     そしてようやく千春はアルコールを吐き出すようにため息をついた。
    「何が、そんなに辛いんですか?」
    「罪悪感だよ。本当に彼に罪があるのかはともかく、罪悪感というものは危険なものだ」
    「……人が忘れさせてくれない事もありますから」
     マスターは頷き、誰も居ない千春の隣の席を見た。
    「彼の場合は麻痺している間に受けた傷が、今頃になって沁みてくるみたいなものだ」
    「ならどうして、罪を重ねるんです」
     マスターは一瞬手を止めた。
    「その分、罰せられれば浄化されると思っているんですか? まわりの人たちは、どうなるんです」
    「君は、その巻き添えになったのかい?」
     千春は唇を噛んだ。
    「わかりません。……彼のチェイサーはどこに行ったんですか? 手足の長い、髪を染めた人形のような女の人。
    彼女の名前はなんていうんですか?」
     ハイボールを飲み終えると、千春は店を出て暫くの電柱の影で、茶髪のウィッグを外した。
     持ってきていたウェットティッシュで口紅を落とし、身につけていた派手なネックレスを外した。
     鞄からいつもの冴えない眼鏡を取り出し身につけると、ようやく視野も蘇る。
     いつもの地味な自分だ。



     
    posted by 小説あらすじ |