(全8章:予定) プロローグ 100人の亡霊 目覚め 一章 1.1 ミオ 1.2 人造人間 1.3 解凍 1.4 150年後 1.5 攻防 二章 2.1 科学者の行方 2.2 空論 2.3 寺院の謎 2.4 ジラジラ 三章 3.1 ミン |
2−9 実験の報酬
「大丈夫ですか副管理人さん」
「えっ」
「目も口も開いていたけど2分程度全く反応が無かった」
あちこちを血で汚した男を目の前に、一瞬で現実に引き戻される。
出来の悪い悪夢のような状況
今はそれが自分の現実だった。
「シュンリ……」
吐き気と嫌悪感が胸を襲い、冷や汗が出てくる。側に転がっているのは、ゾンビだった。
本当にゾンビだろうか。
彼らの実態は不明だがシュンリもそう呼んでいるのだからこの場はゾンビでいい。
……。
「こいつを見てください」
胃のむかつきのおさまらないミオのことなどお構いなしに、
シュンリは足元に倒れているそいつの身体を仰向けに転がした。
胸の刺傷からまだドクドクと血が流れている。
「こいつら、さっきより姿が人間に近づいている……。それともう一つ、面白いことを発見したんだ」
そういうと彼はゾンビの身体にナイフをたて、その表皮を剥いだのだ。
「なぜかこの下は人間と同じような肌になっているんですよ。で、今下まで剥いてみようとしたんだが、股間あたりの皮膚は異様に硬くて難しい。かと思えば別の奴はあっさり刃が
通ったりと個体差があるようなんです。ちなみに、その分厚い皮の下には生殖器の原型の
ようなモノが一応付いているようです」
ナイフをゾンビの目の部分に添え、シュンリは少し笑った。
「昔見た宇宙人の解剖実験みたいだ。作り物だけど、モノクロ映像なのが妙に生々しくて」
彼は何をするか予告をしなかったが、ミオは目を逸らした。
「あ、目はそこまで硬くない。ここから脳を破壊したらすぐやれるかもしれないな。それにしても手足が長い。関節技は効くようだが。動きはそこまで早くなかったな。
つかみ合った時のパワーは普通の、運動していない男程度に感じた。何らかの方法で仲間と敵を
見分けて襲ってくる。それくらいの知能はあるが、ざっと見たところ犬以下だ。だからあんたもコツさえ
わかれば倒せる。服の代わりに少々皮膚が分厚いが、こいつらの強度は人間と大差は無い……」
人間……。
ミオは身震いした。
「これからもっと人間に近いような奴が現れて……言葉を喋ったりしたら、どうすればいいの……」
「どうするも何も襲ってきたら倒す。他に何を判断するんです?」
愚問だった。
シュンリはこれまでの事で勢いがついている。
表情に全く変化は現れていないが。「だって、今の奴だって、苦しそうにしてた……し」
「見た目が人間だったら倒すのを躊躇うというわけか。なら、あなたはあなたの価値観に従えばいいんじゃないですか。俺は相手がゾンビだろうがなかろうが、自分の命を守ることに関係ないと思っています」
ミオは何も言い返さなかった。
「ヤールさんにあなたを死なせないようにとも言われているから、その時は判断してください。俺も無駄に戦って体力を消費する事は賢くないと思うので」
シュンリは見つけた布で手を拭きながらしゃがみ込んだ。先ほどのゾンビを観察している。
「恐怖は、生きていく上で大切な反応だ。未知な物は怖い。敵の事を知らないから怖いんです。だけどどの程度なのか調べることを怠らなければ、思わぬ所で役に立ったりする。
突発的な衝動や好奇心も窮地に陥ったとき知識に救われる事もあるから──……俺はそういう努力や実験が昔から好きなんです」
ミオが黙っていると彼は苦笑した。
「これだけは俺たちの約束にしておきましょう。大勢に囲まれたら、俺にナイフを回してください。バットは一見リーチもあって殺傷力も強いから使いたくもなるが、遠心力が無ければ結局大した
ダメージを与えられない、おまけに釘が肉にめり込んで駄目だ。ナイフで身体ごと体当たりした
方が威力もスピードも確実だ。それはあなたもさっき感じたでしょう。この場合、あちこち物が多くて
死角が多い。いくらのろまだからといって、四方八方から来られたらそれはもう数の暴力。やられるしかないだろう。
なのでやっぱりナイフの方がいい。1対1で距離があるならバットを選ぶ。そこは臨機応変に回してください」
「さっきのは、私に教えるためだったの?」
「あなただって生き残る確率は高い方がいいでしょう。さっきも話したけど、
俺は体力の限界です。もうあなたをかばえる自信は無いんです」
やっぱり、彼はおかしいことは言っていない。
むしろ、おかしいのはこの状況で自分以外の心配をしてしまった自分なのかもしれない。
自分の中に、まだ諦めきれない気持ちが残っている。
今日のこの日まで、冷凍睡眠者たちに思いを込めながら守ってきたのだ。
ミオは唇を噛んだ。
それを、捨てなくては生き残れない。
これまで考えたこともないような状況の中で……。
多分、次はない。
彼はもう助けてくれないだろう。
この状況下だからだ。
彼が自分やヤールと対極の性質という事はなんとなくわかる。
もし自分に彼と同じ力が備わっていたとしても、こうは動けない。だが、あくまで自分の恋人を救うための、この状況だ。
自分だって中で眠っているのがゾンビだとわかっていたならシェルターに足しげく通って目覚めを願うことなんてしなかった。
正直、もう何を信じていいのかわからない。
赤黒く染まる彼は、もはや喋るゾンビだ。
気が遠くなる。今朝まで穏やかに寝息をたてていた彼とは違うし、自分が想像で作り上げていた冷凍睡眠者たちと彼らはもう別物だ。
何を信じて何を選ぶのか。
──この先に起こることを確かめるしかないじゃない。
違う、私が怖いのは、シュンリじゃない。
今、自分はどんな顔で彼を見ているだろう。
私は 今朝の今までシュンリを大事に思っていた。
まるで作り物、陶器で出来た人形のようにきれいで、尊い存在だと。
この美しい人はどんな声で喋って、笑うのか……。
ウイスキー工場の再稼働が夢だと伝えたら、どんな風に言ってくれるだろうと……。
この想いをあてにすることは間違いだろうか。
ーーその時、硬貨が落ちる音がした。
「あ、すみません」
彼はそれを拾った。
「俺が眠っていた部屋にコインがあったので、拝借しました。困ったときに重宝するんで」
「……?」
「決めておくんです。裏が出た時の約束と、表が出た時の約束を。
ここぞという時に投げれば、進路が見えてくる」
シュンリはポケットにコインをしまった。
「あの、それって……」
ミオが言いかけた時、どこかから「チン」という音が聞こえた。
その後に戸の開閉音。
二人は音の聞こえた方向を瞬時に見た。
「エレベーターで誰かが降りて来た……?」
「人、だといいですがね」
彼はミオを改めて見下ろした。
「……俺はこの先、生き残るために、一人より二人の方がマシだと思っているけど
あなたが諦めるというのなら、カードキーは預かります」
ミオは唾を飲んだ。
蛇に睨まれたような妙な圧迫感に押されスカートのポケットに手を伸ばす。
先ほど自分はいいからと渡そうとしたのはミオ自身だ。
ぼんやりながらシュンリの話を聞いていたが、彼が語ろうとした意図はわからなかった。
この場にさえそぐわない何かしらの違和感がある。
その理由もはっきりしないうちにカードキーが渡せるのか。確めるしかない。
もともとは夢だ。
夢のために。
自分が生きて、かなえるためだ。
「この後も私は生きていたい。みんなでピクニックも行きたいしキャンプファイアーもしたい。ウイスキー工場を再稼働させるのが、私の夢なの」
ミオは立ち上がった。
──ミオが静かな怒気を上げたその時だった。
内線が設置された場所へ続く進路から、ぬっと影が現れた。
人型ゾンビだ。
照明の下まで、のたのた歩いてくると、その姿がくっきりと目にとれた。
生気を失った土色の肌に、まるで彫刻像のような筋肉質な身体。
その姿は昏睡状態の間に痩せて衰えてしまう前のシュンリと心なしか似ていた。
だが、顔の部分はまるで分厚い仮面のような──皮膚が剥がれたかのような赤い肉が露出して、他のゾンビと同様醜かった。
「他のと体格が違う……こいつら、もしかしてエレベーターで降りてきたの?」「……違う。あいつはさっき一瞬見えたリーダーみたいなやつだ。降りてきた奴が居るとするなら
あいつとは別だと思います」
シュンリが答える。
「降りてきたのは人間かもしれないよね! 目を覚ました人かもしれないし、
トコリから助けが来たのかも!」
ミオは自分でもおかしなテンションになっている事を自覚しつつも希望が沸きあがるのを感じた。
まるで根拠は無いが、そう思うことでしか気力が保てそうに無いのだ。
シュンリにとっても自分が気弱になってヘナヘナになられるよりはマシだろう。
「しかしこいつはこれまでの奴と比べると少し賢そうだ。まわりに他のゾンビは見えない。なら一発で倒さないと」
シュンリはバットを構えた。
しかし、相手はこちらの様子をうかがうばかりでなかなか襲ってこない。
去就に迷っていてもしかたがない。こちらには時間が無いのだから。
シュンリは走り出した。
それに反応して、ゾンビがゆっくりとしゃがみこむ。
「そんな!」
ミオは思わず叫んだ。
シュンリが釘バットをスイングした時にはゾンビの姿は無かった。
発達した筋。
それをバネに高く飛び跳ねたのだ。
しなやかに空中で身を翻し天井の梁に両足を付き、槍のように突っ込んでいく。
シュンリはすぐさま上を見上げるとバットを捨て飛びのいた。
ゾンビは軽々と着地し、体勢を整え彼に迫っていく。
人間を遥かにしのぐ筋力。
バットを持ったまま襲われたら押し返されて傷を追う、その判断だったのだろうが丸腰で太刀打ちできる相手ではない。
今までのやつとは明らかに違う。
すぐに掴み合いがはじまった。
が、力の差は歴然だった。
シュンリはネコのように首を捕まれコンテナに身体を打ち付けられた。
倉庫全体に衝撃音が響く。
いくらなんでもひとたまりのない一撃だ。
ゾンビはすぐさま彼に背を向け、ゆらりと向き直りミオと目線を合わせてきた。
シュンリは意識は保っていたようで、顔面に怒りを滲ませながら立ち上がった。右肩が異様に落ちている。
*
シュンリは肩の痛みに顔を歪めた。
その痛みに身に覚えがあった。脱臼の痛みだった。
一方のゾンビはというと震えるミオの前で立ち尽くしていた。
まるで隙だらけだ。
シュンリは左手に小型ナイフを握った。
肩の痛みと整わない呼吸に眩暈がする。だが、痛みが無かったらこのまま意識は薄らいでいただろう。
目眩を感じる分いくらかマシだ。
呼吸を整えている時間は無い。
最後の一撃分の酸素とエネルギーが出せればいい。幸い、彼は幼い時に利き手矯正をした後も頻繁に左手を使って生活していた。
ナイフを握るのが左手だろうと大した問題はない。
そして、狙うべきはどう見てもあそこだ。
人間と大して機構が違わないのなら。
実験の甲斐はあった。
──掴みかかって、首にナイフを突き刺す。
シュンリは深々と呼吸をした後、息を止めた。
ゆっくりと近づき首筋を狙うのだ。ミオの視界に入らないように、ゾンビの背中ぴったりに忍びっていく。
と、怯えたミオがわずかによろけた。
彼女とほんの一瞬目が合う。
彼女の紫がかった瞳が、僅かに大きくなった。
そのゆらめきとゾンビがこちらを振り返るのはほぼ同時の出来事だった。
彼女はすぐに視線を外したが、一瞬の揺らぎをゾンビは見逃さなかったのだ。
断絶していた意識の糸が再び彼へ向かって紡ぎ出される。
が、持てる力全て絞って振り下ろされたナイフは、既にゾンビの首筋に突き刺さっていた。
──浅い。凄く硬い!
ゾンビの身体は鉄の塊のように硬く、それでいてしなやかだった。このゾンビは首の部分も強化されていたのだろう。
もしもナイフが小型の物ではなく、大型のサバイバルナイフだったのなら。
もしも肩も外れてなどいなくて、両手でこのナイフが振り下ろすことが出来ていれば。
深く潜り込んだナイフはゾンビの頚動脈を破り、結果は異なっていたかもしれない。
これもさっきの実験でわかったことだが、やつらの弱点と言える頚動脈は人間よりも深い位置に
あった。
今与えた一撃では深さが足りなかったのだ。
失敗だ。
ゾンビはひと声も上げず、距離をとりながら反撃の姿勢をとった。ナイフは首筋に刺さったままだが、大した出血もダメージも与えられていない。
シュンリは指先から全ての力が抜け落ちそうになるのを堪え拳を握り直した。
もう武器はない。
関節技もあの力の前にすぐ外されるだろう。
そもそも肩が外れた状態ではどうしようもない。
かといってこの身体を武器にするしかもう道はないし考えつかない。
――いや、あるじゃないか。
人間の身体で一番力を生み出せる場所、それは顎だ。
攻撃の中心が噛みつきであるゾンビの方が余程賢かった。
自分が今までそれを、女や子供の取る手段だと思い込み選択肢に入れなかっただけの事。
生きる可能性が高い方に賭ける。
決まりだ。
──頸動脈ごと、食いちぎってやる。
次に向こうが襲ってきたら、その一撃目さえどうにか躱すか、しのげばいい。
今度は肩の関節が外れるくらいでは終わらないだろうが。
シュンリは深呼吸すると、コンテナに身体をぶつけて外れた肩を直した。思った以上の痛みに、呻く。
かくして肩は上手くはまったようだが、暫くは思うように動かせなさそうだ。
そしてなによりこのゾンビを相手に生き残れる確率は冷静に考えると、どんなに甘く見積もっても現実味がない。
ここで自分とあの少女は終わる。
彼の意識に諦めが登った時、ゾンビの視線が泳いだ。
脇に詰まれていた木箱が倒れ、箱の中から大量の瓶詰めが転がり落ちてきた。
「こっち!」
ミオだ。
ミオはシュンリの手を取ると走り出した。
「ここ、一番古い物資が置いてある区画で、木が脆くなっていて、手前から突けば、そっちに倒れると思ったの」
息を切らし短く区切りながら彼女が言う。
「あ、あそこ!」
重厚な鉄の扉の横にカードリーダーの緑色の光が点灯しているのが見える。
あと20メートル。
背後から咆哮が聞こえた。
「来てる!?」
ミオが叫ぶ。
シュンリは後ろを振り返った。確認するまでもなかった。
ゾンビは瓶詰を誇りのように振り払い、追いかけてきている。
あと10メートル。
悪夢のような距離。
天井の吊り下げランプが大きく揺らめく。
ドン……。
倉庫全体に音が響く。
二人は立ち止まった。ゾンビは二人のすぐ目の前で四つん這いになっている。
瓶詰が倒れた位置から飛び上がり、頭上を飛び越え四点着地したのだ。
吊り下げランプが大きく揺れ、ストロボでもたいたようにチカチカと明滅し始めた。
まるでコマ送りのように少しずつゆっくりとゾンビが立ち上がっていく。
「何か無いか? バット以外の物……」
ミオは腰に付けていた予備のナイフを取り出し、シュンリに渡した。
「いや──。確かに、さっき教えたな、……そうなんだが、あんた、スプレーとか持っていただろ」
「ごめんなさっ……」
ミオは慌ててスプレーを差し出すが、もう遅かった。
もうゾンビはこちらに向かおうとしていた。仕方なしに攻撃の姿勢をとっていたシュンリの腕とスプレー缶がぶつかり、弾き飛ばされる。
今度はゾンビの方から向かってきていた。
シュンリはミオから受け取ったナイフを破れかぶれにゾンビに振り下ろした。
それを当然のように腕で受け止められる。その態勢のまま力に押し返され、鉄製のコンテナに身体をおしつけられていく。
シュンリの顔にじわじわとゾンビが近づいていく。もう彼に力はなかった。
シュンリが握っていたナイフはゾンビに捕まれ、彼自身の首筋にぐいぐいと動かされていく。
ナイフの腹がシュンリの首にピタリと当てられた。
そしてゾンビは力を掛けたり抜いたりと何かを確かめるように動かし始めたのだ。
これだけの力があれば、即座に首をへし折るくらい造作ない事のはず。今度はこちらが実験されている。
そう思っていたのはつかの間。
遊びに見切りをつけたように押し付ける力を強め、ナイフの柄でシュンリの首を圧迫し始めた。殺す気だ。
*
「やめてっ」
ミオは意を決する間もなく釘バットをゾンビの頭に振り下ろした。
ガイン! と、固いものに打ち付けたかのような感覚がビリビリと腕に伝わる。
ゆっくりとゾンビの顔がこちらを向く。
ゾンビはシュンリの襟元を掴み玩具のように投げ捨てた。
「あぁ、シュンリ!」
鉄製のコンテナに全身を打ち付けられ、彼のうめき声と罵る言葉が聞こえた。とりあえず、生きている。
だが問題はこちらだった。
両手で構えたバットがもう重くなってくる。
ゾンビはノタノタと近づき、そっとミオからバットを奪い地面に転がした。
そして、ゆっくりと顔を近づけてくる。
ミオは目を閉じて痛みを待った。
が、予期していた痛みとは無関係な鼻息が聞こえ始めた。
先ほど、シュンリと出会う前に遭遇した弱ゾンビと同じで、なかなか襲ってこない。
どこも触れられているわけではないが首筋あたりにゾンビの熱を感じる。
──においを嗅がれている!?
うっすらと目を開けると、ゾンビは背後に回っていた。
どうやら同じ挙動を繰り替えしているようだ。
一気に鳥肌が立ち、よろけるままに二三歩進む。
足の力を失い地面に倒れこみそうになると、ゾンビはミオの身体を介助しながら優しく座らせた。
何もしてこない。
貪るように嗅ぐでも脅かすでもなく。
まるでの赤子ような扱いだ。
凍りつきそうになっていた心の中心が、なぜか、溶けていく。
心が麻痺しているのかわからないが、唐突にそのような気持ちは失われていった。
「ごめんなさ──」
ミオがそんな事を言いかけた時、背後で影が動いた。
シュンリだった。
左手にスプレー缶を握っている。
先ほど落としてしまったスプレーは、投げ飛ばされた彼の方に転がっていた。
目潰し、それがこのゾンビを唯一足止めを喰らわせる方法だったのだ。熊用スプレーの唐辛子を多量に浴び、ゾンビは叫び声を上げた。
「このパターンは2回目なんだよ。いい加減学習しろ、バカ」
倉庫の端、扉は目の前に迫っていた。
目の前──。
それでも扉は10メートルは先にある。
シュンリはミオの手を握ると足を引きずりながら走り始めた。
彼ももうスピードは出せない。
怪我をしているし、ミオを引っ張っている。
「シュンリ、私」
「いいから走れ、アンプルもカードキーもあんたが持っているんだ」
もう私は駄目だ。
今すぐにでも足がもつれて転びそうだ。
そうなったらもう終わりだ。
「ごめん、ほんと無理です! 行きたいけどもう、足が動かないの、
ころんじゃいそう! これ、あなたに渡すねっ。頑張ってミンさんの所に行ってね!
ごめんねシュンリ!」
ミオはシュンリの手を振り払った。
肩に掛けていたクーラーボックスとカードを彼に突き出す。
シュンリは眉にしわを寄せ、一緒に歩みを止めた。
「行ってよ〜、お願い! 足がバカになっちゃった」
「いや、タラップが降りてきている。あと1メートルでいい。それに、こっちにこれれば──」
言い終わる前にシュンリの腕が伸びてきていた。
掴んだのはクーラーボックスではなくミオの肩だった。
そのまま引っ張られ、一緒になって床に倒れる。
ドカッ、グチャッ
押しつぶされたようなうめき声。
それきりあたりは静かになった。
いや、耳を済ましてみると、上空で何かが揺れているようなキイキイとした音が聞こえている。
その音だけだった。
ミオはそっと顔を上げた。
さっきのゾンビが振り子のように揺れながら空中を行ったり来たりしている……?その度に床に血の雫を落として、一本の赤い筋になっていく。
フックだ。
ゾンビがぶら下がっているものとは少し離れた位置で、他に2つのフックが同じように揺れている。
「ゾンビの……一本釣りだ。なんというか」
シュンリは平然と呟くと、重なって倒れこんでいたミオをごろんと下ろした。
ミオは倒れたはずが殆ど身体に衝撃を感じなかった事を思い出した。
シュンリがこれをやった? まさか。
何が一体どういう事か。
身体を起こしてよく見ると、理由はすぐにわかった。
ゾンビの眼球部分に大きなフックが突き刺さっている。
何らかの偶然が働き、丁度ここを通り過ぎる時にコンテナを引っ掛けるための鉄製の大きなフックが
外れてゾンビに直撃した。
そういう事なのだろうか。
「そんなラッキーあるわけ……」
ミオがシュンリに問おうと思った時には、もう彼はゾンビを見ていなかった。怒りを滲ませたような無表情……。
そんな面持ちでコンテナの上部にある中二階部分に彼は目を向けている。
そこには男が居た。
「ラッキーストライクってね」男が声を発した。
続きは執筆中
傷だらけになってきました。あと、文章にやる気ないそして、
ミオがイライラするほどヘナヘナです
要約漫画
あまりにてきとうな挿絵
次が更新されるまでここに居座ることになるだろう
2―8 海に沈んだ国道
やっぱり死にたくない。
思いとは裏腹にミオの身体は水中の中で藻掻いているようにもたついていた。
ゾンビは両手を羽のように広げミオに襲いかかってきている。
死ぬ……。
だが、数秒後ではない。
数秒で死ぬなんて事はありえない。
肉を食いちぎられ、なじられ、ボロボロにされるんだ。
長い苦しみと痛みを味わいながら……。
──嫌だ。痛いのは嫌だ。
ミオは背中に熱を感じた。
シュンリがぴったりと後ろにくっついている。
──何をしているの?
「ナイフを握りつづけて」
シュンリは耳元で低く呟くと、固まって動かなくなったミオの右手首を掴んだ。
すぐに何も持っていない左手も固定され、二人羽織の体制のまま二三歩前に進む。
目の前にはゾンビが居て、まさに自分たちを襲おうとしている。
ミオが息を飲みこもうとした時。
後ろにぴったりついていたシュンリがミオの腕を横に薙ぐように動かした。
──?
腕の先のナイフが硬い物に当たる。
その直後、ねじる様な動きの後にズブリと肉を刺す感触が伝わって来た。
目を開けると自分が握るナイフの柄と喉がぴったりとくっついたゾンビがビクビクと痙攣している様子が飛び込んできた。
シュンリがミオの腕を使って刺したのだ。
それを再利用するために、今すぐ抜く必要がある。
――ああ、やっぱり
シュンリはすぐさま引き抜くとミオの身体ごと90度方向転換した。
そこには三体目のゾンビが居た。
「やっ」
情けないか細い悲鳴が漏れる。
シュンリに振り回されながら、ミオの腕にも肉を刺し抉る感覚が流れてくる。
「はなしてっ……」
「フォークダンスか何かだと思えばいい」
ふざけたことを!
いくらなんでも、あんまりだ。
これではただの操り人形だ。
ゾンビはまだ居る。
シュンリはミオの手首を無理やり掴みなおし、突き上げるようにゾンビの胸を刺した。
普段動かない向きに関節を動かされ、ミオは鈍い痛みを感じた。
しかし、そんな痛みはすぐに上書きされた。
肉の中に沈んでいくナイフの感触。
真っ赤な鮮血の生温かさに。
「ギャアアアア」
「うわああああ」
ゾンビとミオが叫び声をあげた。
ミオの絶叫に構わず、シュンリは彼女の腕を強く制している。
「前!」
さらにそのまま2、3歩押されるままに進み隠れていたゾンビを刺す。
これで4体目だ。
もう、こんなものは見たくない。
目を閉じた瞬間、ミオは背中を突き飛ばされ──コンマ数秒後に何かとの衝突を感じた。
驚きのあまり力が抜け、顔面の緊張もゆるむ。
うっすら開けた視界の端に──……首に致命傷を負ったばかりのゾンビの姿があった。
それがもつれるように自分と一緒に傾き沈んでいく。
「あっ」
腕で守りきれず地面に顔面を打つ。
ミオはその痛みにこれまで辛うじて残っていた気力の全てを削がれた。
何が起こったのかよくわからない。
上体を起こし、彼を探す。
シュンリの息遣いと怒号、もちろんゾンビの咆哮もまだ聞こえていた。
恐る恐るそちらの方を見ると、妙な方向に首の曲がったゾンビが彼の足元に倒れた所だった。
そしてその時、ミオは彼に突き飛ばされ倒れた事を悟った。
守られたのか、それとも大掛かりな武器にされたのか。
今倒れたゾンビの他に影は無い。
そこには彼の姿しかなかった。
ミオは彼に声を掛けようとした。
が、シュンリはバットを拾い、倒れたゾンビの後頭部を殴打、新たな追撃を喰らわせていた。
どう見てもダメ押しだ。
メキメキと骨を砕くお馴染みの音、当たり前のように飛び散る脳漿と血。
もう一匹息のある者も隣で身悶ている。
シュンリはゆっくりとそちらに近づいて行った。
息をあら上げ肩で呼吸をしながら悶え苦しむゾンビの喉元を力一杯踏み潰した。
悲鳴に近い叫び声。
ダメ押しすぎる。
「やりすぎ……!」
思った以上に掠れた声しか出なかった。
声が届いたのか、彼は踏みつけるのをやめミオの方に向き直った。
服や髪に飛び散った血と脳漿が、彼をより不気味な男に仕立て上げている。
「実験は大切だと思いませんか」
シュンリは手で血糊を拭いながら起き上がれないミオに手を伸ばしてきた。
(そんな手、握れない……)
気が遠くなっていく。
ミオは今度こそ気を失った。
*
国道がまだ完全に水没する前だったから、その記憶は十年前のものということになる。
ミオはトラックの荷台から水の浸かった道路を見ていた。
側にはヤールが居て、地図に赤でチェックを入れていた。
「今は何時だ」
ヤールはそう尋ねた。
ミオは「三時四十分だよ」と答える。
言われた時刻をメモするとヤールは小さくため息をついた。
「おばあちゃんに時計の読み方を教えてもらったの」
ミオは得意気に言ったが、そこにはいつもの優しい笑顔は無かった。
「そうか」と言ったきり、ヤールは道路の先を見つめていた。
やはり、昨日の事が原因だろう。
ミオはその場に固まり、俯くしかなかった。
しばらくの沈黙のうち、風が凪いだ。
我慢が出来なくなってミオは顔を上げた。
「ヤールさん」
「なんだい」
ヤールは普段どおりの顔に戻っていた。
それが急に悲しく、申し訳なく思え、ミオの顔はどんどん熱く火照っていった。
涙が溢れていく。
「母さんが死んだのは私のせいだ」
口から零れたのは意図していたのとは全く別の言葉だった。
それでも、もう止まらなくなっていた。
「母さんが死ぬ前、酷いこと言っちゃった。それで私、喧嘩しちゃったの。
それで母さんは次の日死んじゃったの」
「母」が亡くなってしばらく経っていた。
それまで自分は何をしていたのだろう。
「働かなくては」。
昨日、ミオは自分の世話をしてくれるヤールに料理を振る舞おうとした。
そして一人で近くの山まで山菜を探しにいった。
近所のおばあちゃんと一緒に行った事を思い出しながら。
根の色の見分け方、葉のかたち。
ミオは知っていたはずだった。
だが、その中に毒草が混ざっていた。
調理に取りかかる前に台所を覗きに来たヤールが気づき事なきを得たが。
ヤールは、自分もここに来たばかりの頃はよく間違え、おばあちゃんに聞いて分別してもらったものだと
慰めてくれたのだが、もしもこれを自分たちが口にしていたらと思うと震えるようだった。
ミオはその日、目が腫れるまで泣いた。
もともとすぐに大泣きする子どもだったが、「母」が亡くなった日から不思議と涙は出ていなかったのだ。
人造人間は寿命を迎えると、その数か月前から認知機能が急激に低下し最後は動けなくなって死んでしまう。
彼らを作っている側や、この社会を維持する人間側の都合で、そうなるよう生まれながらにそのような機構が
組み込まれているためだ。
ミオは「母」と血のつながりというものがあるわけではない。
人間社会の基準に当てはめれば代理母とか、養母という位置だ。
実際彼女は自分が産んだ本当の子どもの幻影を追って、最後は手頃なサイズの枕や人形などを絶えず
抱きかかえる事で安心するようになっていた。
ミオは、そんな母とろくな関係も結べず近所にいたお婆さんや孤独な学者のヤールに愛を
求めて生きるようになっていた。
この「人造人間」というシステムにも大きな問題が生じていた。
彼らに人間同等の知能が与えられるようになったのは母の世代からだった。
しかし、その代はろくな愛情を受けて育った者が少ない。
社会の偏見や彼らの存在を低く位置づけるこれまでの習慣は根強い物があった。
役目を終えた人造人間に寿命が訪れるまでの間、新たな人造人間を育てさせるという構図があったが、
それは不完全なものだった。
彼らは人造人間の子どもを育てる代わりに住居や金銭の保証を受けられたが、愛を知らない者に子育ては不可能に近かった。
多くの人造人間達が用済みにされるのも、基本的な人格が形成されないまま育ってしまった事で社会に適応出来なかった。
子育てを放棄したり、ろくなケアをしないまま死なせてしまう。
男性人造人間はすぐさま戦地に駆り出され、その衝動性と粗暴さから進んで地雷源に突き進んで行った。
質の低い愛では、人は育たない。
そのような理由から人造人間さえ、その数は減っていったのだ。
ミオの世代から、彼らに人間と同じ知能や情が備えられている事や、人間よりもずっと短い寿命が定められている
事に意義を唱える人間達が現れ始めた。
寿命やアポトーシスの事は、現在はどうなのかわからないが、彼女、彼らを地域で守ろうとする流れが生まれ、
ミオとその「母」はヤールたちと関係を結べるようになったのだ。
そんな流れがなくとも、ヤールらは彼女らを庇護しただろうが。
ミオがそんな事情を知ったのもヤールの書斎の本や、時たま訪れる彼の教え子による話からだった。
人造人間が人間達にどこか格下に見られている事、世話になっている身分である事を知ったのもその時だった。
「母」は人造人間の中でもとりわけ短命だった。
そこに愛着関係など殆ど無かったと言っていい。
──母を失った庇護の無い者は早々に養成施設へ引き渡される。
ミオはヤール達に見放されないために必死だった。
そんな中、毒草を調理しようとしてしまった事は大きな痛手であり……守ってもらうために役割を確立
すべきだと幼いながら自覚していた彼女にとっては絶望的な失敗だった。
だが、本心は──
そんな算段──(という程の意識は無かったが)、はどうって事は無かった。
認知機能が衰えてしまった母に酷いことを言ってしまったまま別れてしまった事が何より辛かった。
一人の生命を、死に追いやってしまった。
自分は最悪だ。
母も辛かっただろう。
私がその死に目に追い討ちを掛けたのだ。
*
数十メートル先はまだ陸地が続いているように見えた。
荷台から降りて雑草でぼうぼうになりかけた道路を歩いてみる。
道が泥でぬかるんでいた。
一度ヤールの方を振り返る。
「そこから先は草がもうない。道路も泥でぐちゃぐちゃでよくわからないだろう?」
後ろからヤールが声を掛けてきた。
確かに、今まで歩いていた道のすぐ先は草は生えていないようだった。
「こっちにもどって来なさい。これからあっという間に海が来るから」
ミオは飲み込まれてしまいそうな気がして小走りでヤールの元へ戻った。
履かされていた長靴は跳ねた泥で汚れていた。
「ここはもうすぐ海の底になるから、近づいちゃ駄目だよ」
「海じゃなくて大きな水たまりだよ。それにこの長靴だったら向こうにいけそうだったよ」
「水を舐めてみなさい」
言われるままにすくった水を口に持っていくと、塩辛い海の味がした。
「海の味のする水だ」
ミオが目を白黒させると、ヤールはやっと笑った。
「この道を通るのはもう止そう。ここより上の道があるのを覚えているかい」
「蛇が出そうな、黒い地面の道?」
「あそこは比較的新しいアスファルトの道だった。一年もしないうちに草だらけになってしまったけどね。
人の手入れが無いと、人工物はすぐに駄目になる。今度からあの道を使う他無いな」
母さんと、時々通った。
道は出来立てで、アスファルトの道路は恐ろしいほど黒く艶やかだった。
人工物である事をありありと主張したその道路を、母の手を引いて歩いて行った。
舗装されていない道や、石や砂利でボコボコになった地面の感触しか知らないミオにとっては、
足に感じる固い水平は、とにかく新鮮な物のように感じたものだった。
それから何も言わず、二人で一時間ほどの時間をそこで過ごした。
風が出始めミオはヤールに肩掛けを掛けてもらった。
だんだんと水位が上がり、大きな水たまりだと思っていた水没箇所はいつの間にか湖程に広がっていた。
「ヤールさん、海が道路を飲み込んじゃった。あの水たまりは本当に海だったんだね」
「あぁ。この光景は、君にはどう映る?」
「どうって?」
「悲しいか、きれいか、どっちの感覚にちかい?」
そのどちらもだと思った。
なぜそう感じたのか当時は理由もつかなかったが。
当たりが暗くなっていくと、徐々にその感覚もぞっとするような寂しさ、恐れに変わって行った。
──こわい。
その言葉を発する前にヤールが煙草を出した。
そうだ、あの時ヤールはよく煙草を吸っていた。
「この光景はけして怖いものではないよ」
「……」
「こうやっていくつもの街や都市が海のそこに沈んでしまったが、それでも技術や知識は
途切れながらも発掘されたり継承されてきている。今はそれを目覚めさせる準備期間だと
私は考えているよ。今は技術の問題と言うより……人手不足だ。今まで人類は、生きて
数を安定させる事で手一杯だった。これからシェルターの古代人が目覚めれば、この国も
沸き立ち、文化面に目を向ける人もさらに増えていくだろう。……もちろん、おばあちゃん
のように、このまま終わりを受け入れるという考えもあって然りだ。ミオはどうなのかな」
「私は……」
──悲しくて綺麗で、なんだかやっぱり怖いよ。
幼すぎて言葉にする術を持たなかった自分にその光景は、恐怖と悲しみの混ざったモノとして刻まれた。
今でもその光景は当時と同じ感情を伴って再生される。
思えばあれは、国道が通れなくなった時のための迂回路を地図に書いていく作業だった。
それにミオはついて行ったのだろう。
悲しく美しい原体験の一つだ。
「古代人の人たちが起きたら、一緒にいろいろなものを食べて、見たり回ったりして
楽しく過ごしたいな。浜辺でキャンプファイヤーをして踊って、それからウイスキー工場の話を
するの。どうやったら美味しいウイスキーが出来るのって!」
]]>
ミオに押し込まれたエレベーターはゆっくりと下降していった。
シュンリは暗闇の中息をつきながら、貨物用のエレベーターなどに乗る事態に二度と遭遇しない事を祈った。
──いや、祈るべき事はこの場合、他にいくつもある。
先ほどまでの妙に高揚していた気分が急激に下がり、ぐっと眠気が押し寄せる。
側で少女がまだ息を切らせていた。
緊張感から一転、現在占める感覚は男の性。
少女の柔らかな胸が腕に密着していた。
ほのかな石鹸の香り。
それは目覚めた時に嗅いだ部屋のものと同じだった。
「無茶はしないで……お願い」
ミオは鼻を啜りながらしがみ付いている。
──恋人「ミン」との生活は、無臭。
何もかもが淡白になり、徐々に色も失って行った。
「あのね、私、子どもの頃これに乗って出られなくなった事があるんだ」
暗闇の中、ミオが呼吸も整わないまま話始める。
「中からボタンを押せばよかったんだけど真っ暗でわからなくて……。その時代から
シェルターの人たちは死んでいる可能性もあるって話はあった。開けてみないうちはわからない。
中で眠っている人達だって、目覚めてみるまで自分が生きているか死んでいるかわからない」
ミオは腕から離れ、ゴシゴシと目を擦った。
「男性棟の人たちはあなたの言うように殆どがたすからなかった……。
きっと、この長い時の中、蘇生不可能な状態に身体が変化したっていう瞬間があったんだよね。
その瞬間がその人たちの死って事だよね……。だけど、当の本人達は自分が死んだことなんて
気づかないし……私たちが開けて確認して始めて、それが現実になった……
その間彼らの心は、魂はどこにいたのかな。そんなものは、やっぱり無いのかな……真っ暗なこの中で色々考えて怖くなったんだ」
このような物言いには心当たりがある。
やはり、ミンだ。
ミンはよく、異母兄の影響で哲学や心の所在といった話題をよく持ちかけてきた。
まともに付き合った記憶は無い。
話そうと思えばいくらでも付き合う事は出来ただろうが、一緒に暮らし始めるようになったころから
そんな事で気をつなぎ止めようとする努力も、真の意味での興味も感じなくなった。
手に入ってしまえば、大体そんなもの。
あとは惰性。
同じ日々が繰り返されるだけだ。
と、エレベーターの減速を感じ、物思いは唐突に途切れた。
「これはどこに着くんですか」
「倉庫だよ。シェルターの一番下層に着くの。オートミールとか、缶詰が沢山ある」
「安全ですか?」
「わからない……。崩れそうな場所もあって危なくて滅多に行かないんだ」
扉が開く。
ミオに続いて降りるとそこには天井の高い、地下とは思えない空間が広がっていた。
コンテナや大量の木製の箱が山積みにされ、天井から吊るされたハロゲンランプが
頼りなさげに点滅し明るさをどうにか保っている。
長い間放置されていたのか、当たりは埃っぽく湿った木箱の匂いで満ちていた。
食料品の名前が書かれた木箱はどれも朽ち始めている。
全て備蓄だろう。
一般的なシェルターの備蓄量がどうかは知らないが、ここにあるのは相当な量だ。
至る所にフックのついたワイヤーが吊り下げられ、コンテナを出し入れしていた様子がある。
「……内線があるんだけど、確かこの先なんだよね」
と、言いながらミオは箱から一つ缶詰を取り出した。
「レンズ豆のパテ! すごい、30年前に製造されて10年前に賞味期限が切れてるみたい……。
……まだ食べられると思う? やっぱ無理かな。作ってるのは工場だし、
缶詰っていけそうなイメージがあるんだけど」
「150年前の肉が生きているんだから大丈夫でしょう」
彼がそう答えるとミオは口元に手を添え小さく笑った。
「古代人ってみんなそんな冗談を言うの? じゃあ、これ終わったらちょっと食べてみない?
お茶もあるしピクニックにいきたいな」
そうですね、と簡単に答えシュンリは山積みの木箱にもたれかかった。
薄暗い所為もあり、ますます瞼が重くなっている。
「そこ、木が腐ってるかも。あんまり押さない方がいいよ」
ミオが心配そうに覗き込んでくる。
「しんどいの? ……」
視線は合わせず、彼女の全身に目を向ける。
彼女の服にも少々血の付着があった。
だが、擦り傷以外の怪我は無さそうだ。
自分もこの返り血の割には目立った傷は無い。
彼女はとびきり器量がいいわけではないが、大きな紫がかった瞳の、どこか愛嬌のある顔をしていた。
いくつなのかはしらないが、見た目的には18そこそこといったところだ。
精神年齢を考えると印象としてはそれよりも低めだ。
そして。
先程まで密着していた豊満な胸。
不意に浮かぶ好奇心。
地上で会った女性の「モドキ」という言葉を思い出す。
ミオというこの少女の何がどう、モドキなのか。
あの口ぶりでは、現代では人造人間が沢山居るようだが皆この少女と同じような風体なのか。
あどけなさの残る顔つきは、そこらへんの少女のそれと相違は無い。
個性なのか? それとも望まれて造られたものなのか?
「私、大丈夫だよ、心配しないで。どこも怪我してないから。それより、あなたは?」
ミオは胸元を隠して照れた表情を作った。
──観察しすぎたようだ。
「手首を痛めたみたいです。さっきのゴリラゾンビに拳銃を弾かれた時だと思う……それくらいです」
「本当? 見せて」
ミオは両手でシュンリの手を取った。
「────」
そこで彼女の口から聞きなれない語が飛び出した。
思わず疑問の表情を向ける。
「ん?」
「俺の時代には無いイントネーションと単語だったので、何かと」
ミオは二回ほど瞬きをした。
「そうだったんだ。ううん、手当てするよって言ったの。そのおまじないの言葉なの」
そう言って、ミオはただシュンリの手を取った。
彼女の口調は一見乱暴に聞こえる。
だが、おそらくこれは言葉のイントネーションや略仕方のせいだ。
150年もの時の流れの中で消えた言葉や新しく生まれた言葉があるのだろう。
彼女と話をしていると、この時代では過去ほどの言語は無いのではないかと感じる。
それが彼女から感じる幼さの理由だろうか。
そうだとするなら、自分の口調は必要以上に丁寧に聞こえているかもしれない。
だが、通じないほどでもないし大きな壁になるような不便さは感じない。
ミオは時々よくわからない単語を発したが、単語の略式だろうという事は推測と文脈で補えた。
こちらもそれは同様。
言語の壁は、殆ど生じて居なかった。
山岳信仰も生き残り、基本的なコーデリテ人の気質や風土もそれほど変化は無いように思える。
むしろ文明が後退しているくらいだ。
✳
……彼女はまだ念じ続けていた。
──やれやれ、どの時代も女は変わらないな。
「もう平気ですよ」
いい加減鬱陶しくなりシュンリは腕を動かした。
ミオが顔を上げる。
ミオは真っ赤になり、両手を上げて後ろに下がった。
「ごめんっ。変な事だった? これ」
ミオは真っ赤になった顔を両手で覆った。
「いや……そういうわけではないけど、そんな事をしている場合かと」
「古代人はやらないんだね、手当て」
「はい?」
「痛い場所に別の人が手を当てて元気を送ると、痛くなくなるんだよ」
シュンリは流石に飽きれて、「はあ」と言った。
「こ、これって、古代人にとって失礼な所作なのですかな、気をつけます、ごめんなさいです」
丁寧語を使い慣れないのか、彼女は舌をもつれさせながら言った。
「長い間俺があなたの家に居たから距離を近く感じるのでしょう。気にしていません」
「え、うん……?」
そこでシュンリは話を切ろうと思った。
「あっ、あのね」
ミオが思いついたように続けた。
「私、小さい頃からあの近くに住んで居たんですけど、時々、ヤールさんとここに来ていたんだ。
調査の人たちが、みんな死んでるかもって言っても私には時々光が見えたの。だから絶対誰か
目覚めることは確信していたし、みんなに親しみを感じていたんだ。本当は直接肌に触れないと
効果は無いんだけど、装置の前で一人一人に手当てをして、元気に復活できるよう、
私の元気をあげたりしていたんだよ。シュンリがうちに来てからは、シュンリばっかりにしていたけどね。
元気をあげると、相手の痛みがじんわりと自分に伝わってくるの。それで私、きっと、余計に
馴れ馴れしくなっちゃったのかもね」
語り終わって、ミオは理解を求めてくるかのような目を向けてきた。
「そうなんですか」
「だからって、急に丁寧な感じにするのは変だよねっ……」
「普段どおりにして下さい。この時代に合わせていかないといけないのは俺の方なんだから。
それに、痛かった手も、なんだか本当に気にならなくなってきた……気がするから」
「よかった! 古代人には効かないのかとおもっちゃたよ」
彼女の物言いは迷信を信じているというより、その力がある事は当然だ、と言っているかの様子だった。
しかしどう考えてもミンが時々語っていた心がどうとかいう話以上にスピリチュアルなものだ。
現代人全員がこうなのだろうか。
げんなりしつつもシュンリは痛みが和らいでいるのを自覚した。
気休め程度にはなるのだろう。
「シュンリは、何かある? 他に変だなって思った事とか、自分の体調の話でもいいよ」
「……そうだな……」
シュンリは、今日目覚めた時に感じた感覚を思い出した。
彼女に告げた所で何もならない戯言だが。
「今、不思議な事に二つの感覚が入り混じっている。俺にとっての昨日はあなたにとって
150年前だ。だけど、本当にそんな長い年月が経ったと同時にわかる。
これは今日目が覚めてすぐに悟った事なんだけど」
「二つの感覚……?」
ミオは首を傾げた。
「ここは150年後の世界だと話を聞いて頭でわかるというわけではなく、感覚としてわかるんだ。
自分が生きていた世界で感じてきたものと180度変わったから身体がそう思い込むのかとも思ったが
そうではない。長い年月、凍っていた間も身体の機能の一部は凍らずに時を刻んで居たんだと思う。
何年も使っていないパソコンの電源を入れた時、時間が正しく表示される原理と似ている……」
「え?」
ミオが大きな目をぱちくりさせる。
伝わりにくい例えだったのだろう。
「とにかく、筆舌に尽くしがたいがそんな感覚なんです。さっき、凍っている間の心の所在みたいな話をしていたけど、
精神面では間違いなく死んでいるのと同じ状態だったと思う。意識も無意識も無い。消えていた。
肉体が復活して動けるようになったから作動し始めただけだと俺は思っています」
ミオの瞳は宝物を見つけたように丸くなった。
「それすごいと思う。ヤールさんに本を書いてもらわないと。あとは何かある?」
問われて彼は再び考える。
目覚めの光明を疑う事があった。
彼の子供時分から血眼になって物にしようと努力してきたある領域の思考について。
それについて今まで獲得してきた方法で筋道を追おうとすると、脳に高い負荷がかかる感じがあった。
導きだせなくなるわけではないし思考がまとまらなくなるわけでもない。
それがなんなのかは、漠然とした感覚としてあるだけなので、今後どういった支障を生むのかは検討がつかない。
脳の一部が、どこかしら壊れてしまったのだろうという予感を感じてはいる。
それ故に、代償が起きているのか。
先ほどから頭を擡げる不調とも言い難い、「予感」。
──この状況にはなんの足しにもならない。
シュンリは一通り考え、「眠気くらいです」と答えた。
眠気。
そう、一番の問題は眠気についてだ。
今までに感じたことのない類の眠気。
身体を動かしている間は平気だが、一度止まると瞼が降りてくる。
この瞬間も。
「そうだよね、急に動いて疲れてるよね」
ミオは心配そうな、申し訳なさそうな顔をした。
それを見て、彼は思った。
人間だろうが愛玩具だろうが関係ない。
それがゾンビだろうとも。
武器を持った自分と、ゾンビ。
時が流れようとも、人類はそう変わらない。
人間らしさは姿形により決められるものではない。
「それ」は、生まれたときに殆どの人間に標準装備されている。
可視化出来ない心の機能により決まるのだ。
個性でも造られたものだとしても、彼女には「ある」ことが簡単に分かる。
──全く、面の皮一枚だ。
「あっちはビスケットの缶が沢山あるよ。国のものだから、基本私たちは手を出せないんだけどね……でも賞味期限切れてるし……」
少し歩くと右手にセンターラインの引かれた通路が現れた。
通路の先は倉庫の壁へと続いている。
こうして見るとかなり奥行きがあり広い。
コンテナの中の殆どは空だと言うが、改めてその計画が長期的なものだったという事を感じる。
もちろん、150年前の時点でも冷凍睡眠後にしばらくそこで生活をする事を見越して倉庫は存在したが、
ここまでの容量では無かった。
一度崩して建て増し建て増しやってきたのだろう。
戦争はそれほど長期化したのだ。
どうやら、自分たちが降りてきた貨物用のエレベーターは倉庫の端の角にあったらしい。
少し歩いていくと、これまでと違った見通しの良い通路が現れた。
機材やコンテナを通すためなのだろうが、その通路には5メートル程度の幅があった。
道の左右にコンテナや木箱が殆どが並べられ、どの荷物も高さは一定に揃えられている。
その通路には所々脇道があり、物資の区画整理がされている様子だった。
「そっちの脇道は、行き止まりですか?」
ミオに確認する。
「行き止まりのところもあれば、またこの中央に通じている所もあったと思う。どうする?」
「行き止まりで大勢に追い詰められたら流石になぶり殺しにされるだろう」
「……私、わからない……」
「じゃあ、この目立つ通路を突っ切るしかないな。もしくは、上に登れたらいいんですが」
倉庫には左右に中二階の簡単な足場が付いていた。
見通しがきかない上にあちこち路地がある倉庫内は、万が一ゾンビ達が入り込んでいたら危険だ。
それよりかは少々目立ってもあそこを全力で突っ切る方が安全に思える。
「私もそれがいいと思う。たしか、そこからならミンさん達が眠っているエリアに行ける」
「そうか。なら、やっぱりここを通るしかないか……」
コンテナの影から動く者が現れた。
あさぐろい肌。
人型「ゾンビ」だ。
襲ってくるでもなくじっとこちらの様子を観察している。
談話をしつつも周囲への警戒は怠っていた訳ではなかった。
だが、向こうはとっくにこちらに気づいた上で見つからないよう様子を窺っていたのかもしれない。
いつでも襲ってこれたというわけだ。
なぜそれをしなかったのか。
そばにいたミオが驚いて後ずさりする。
ゾンビが動いたのはその時だった。
相手の力量をはかる観察対象から、弱いとみて攻撃対象に変わった。
その空気のような相手の挙動の変化を本能で感じる程度に自分も「動物」だ。
敵意が無いと言うことを示すことは出来ない。
自分たちにはこの一本道を突き進むしかないのだから。
シュンリはバットを構え、相手を見据えた。
「また、戦うの……?」
ミオが言いすくむ。
ゾンビは僅かに身を屈めた姿勢のまま、シュンリの方を見ている。
視線はこちらだが、目は合っていない。
──何を見ている?
こちらを窺っていたゾンビの視線がミオへ移った。
襲う方を選んでいるのか。
すると、荷物の影からさらに2体の人型ゾンビが現れ、何やら彼らと目配せを始めた。
リーダー格のようなゾンビが後ろに下がると、一番小柄な者がのたのたと前へ出てきた。
甘く見られた物だが、奴等はやる気だ。
視線を正面に保ったままミオに聞く。
「副管理人さん、ちょっと出口からは遠のくが、さっきの場所まであいつらを誘いましょう。
あそこにはゾンビは居なかったし狭い通路なら、一匹ずつ相手に出来るから」
一体のゾンビが走り迫ってくる。
狙いはミオの方だ。
彼女の返事を聞き終わる前に、シュンリは動いていた。
*
一体目の敵は釘バットのスイングを受け簡単に倒れた。
釘部分がゾンビの腹に食い込んだまま抜けない。
狙わないように気をつけていたのだが。
シュンリはやむなくバットを捨てると2体目のゾンビに向きを変えた。
相手の腕を取り後ろ手に締め、そのまま体重をかけて押し倒す。
そのまま首を締め上げると意外な程あっけなく骨が折れる感触が伝わってきた。
手加減の力加減のほんの先に、生命の終わりがあったという事を改めて実感する。
が、そんな感慨も一瞬のうちに冷めやり、シュンリは立ち上がった。
ゾンビの力は大したことが無いのだと、わかってしまった。
力の程度より、弱さの要となるのがその力の使い方だ。
安物の、機能が限られたロボットのように単調なのだ。
あのゴリラゾンビのような圧倒的なパワーがあれば別だっただろうが。
「リーダーが出てこないな……」
彼は辺りを見まわし呟く。
辺りに影は無かった。
シュンリは腹に釘バットの刺さったままのゾンビに歩み寄り少し屈んだ。
そいつにはまだ息がある。
「何をするの……?」
ミオが足を内股に震えさせながら後退する。
「回りを監視しておいて下さい。もう一匹居るはずです」
シュンリはバットを取り出そうと刺さったバットをねじくり回した。
その度にドロッとした液体が溢れ、ゾンビは悲鳴を上げた。
ミオが口を抑える。
「抜けないなあ……」
シュンリはゾンビの腹を片足で踏み、バットから無理やり引き剥がすと息もつかず振り下ろしとどめをさした。
血飛沫があたり一面を汚す。
「しかしここにもゾンビが居るとは。ここに来る方法はいくつありますか?」
が、ミオからの返答はなかった。
「副管理人さん……」
「……え、何か言った?」
「ゾンビはどうやってここに来たのか聞きました」
問われ彼女が考えはじめる。
「エレベーターも階段もカードキーが無いと使えないはず……だからわからない」
「そのどちらかを使うしかない。俺たちも同じだ」
「でも私……」
彼女の顔は怯えきっていた。
シュンリは苦笑した。
「あなたはこんな生物を生み出すに至った人間側の事情以上に、俺が怖いんでしょう」
ミオは青ざめたまま首を横に振った。
「違うよシュンリ……。シュンリの事は怖くないよっ。だから、私が無理そうだと思ったら、
私なんて捨てていいから……。大事なのはあなたとミンさん達が助かることだから……。私みたいなのは
吐き捨てるほど居る……。でも、あなたは一人しか居ないから死んじゃ駄目……」
ミオは声を震わせ言った。
そして悟る。
彼女が「モドキ」と呼ばれる理由を。
ミオはポケットからいそいそとカードキーを出し、シュンリに差し出した。
差し出す手は震えていた。
「あなたが持っていた方が、いいんじゃないかな……」
カードキーを受け取りかけた時、前方の影が動いた。
息を吐きながらシュンリは立ち上がった。
前方、後方から2体ずつゾンビ達が歩み寄ってきている。
「後ろにも居る、諦めるくらいなら一匹くらい任せますよ。スプレーもまだ使えるでしょう」
背後に揺れる影。
ミオがゆっくり振り返えると、近くに浅黒い顔が迫っているところだった。
「うっ」
ミオは腰からナイフを出し、構えの姿勢をとった。
それに怯むこと無くゾンビは近寄ってくる。
]]>
*
携帯電話のバックライトが光った。
音が出ないよう設定を変えていたのだ。
そうだ、この中にはヤールが居る。
ミオは慌てて取り落とさないよう気を付けて電話をとった。
『今大丈夫か?』
「大丈夫じゃないっ。ゾンビが厨房のシャッターを破ってこっちにこようとしているの! どうすればいい?」
『落ち着くんだ、施設内の通電が済んだ。貨物用のエレベーターがある。それで降りて倉庫に退避しなさい』
ミオは周りを見渡した。
「どこっ」
『黄色いランプが点灯している。昔いじけて隠れていた事があったろう、そこだ』
シャッターからゾンビの浅黒い腕がいくつも伸び、メキメキとスペースを押し広げていく。
ミオはもつれる足を踏ん張りながら厨房を走った。
『あれ以来、簡単に入れないよう物で塞いである。二人なら乗れるかもしれない』
「わかった」
『落ち着いたら内線をかけてくれ。倉庫は電波が届かないかもしれないから』
ミオは携帯電話にキスをして、腰のカラビナに取り付けた。
母と喧嘩をする度、シェルターの植物園で時間を潰したものだった。
ミオは植物園で本を読んだり、シェルターを探検する事が昔から大好きだった。
今でこそ一晩中シェルターで過ごすこともあるが、当時は夜の山道は通ってはいけない約束をしていたので
夕方頃には建物の外に出て、いつも迎えにきてくれるヤールを待つ事になっていた。
その時には怒りも収まり……、母にいたっては喧嘩になった事さえ忘れていた。
ミオにとってはそれがまた、腹立たしく悲しくもあった。
思えばあの時、母はもう、耄碌していた。
いろいろな事が悲しく、寂しかったのだと思う。
今は後悔している。
母が居るうちに、もっと優しくしてあげればよかった。
いじけて心配をかけてしまおうだなんて、間違っていた。
ミオは壁を塞ぐ荷物を押していった。
当時のイメージより小さいが、滑車ごと入るタイプの物のようだった。
側に台車も放置してある。
「シュンリ、こっちに来て!」
耐重量120キロ。
彼が見た目どおりなら多分大丈夫だ。
ミオはボタンを押した。
数か月前からテトゥルに戻って暮らすようになっていた管理人のヤールが、所用で中央へ召喚されてから二週間が経っている。
「大丈夫です。私、これまでも結構一人でやっていけてたし、心配しないでお仕事頑張ってよ」
ミオは意気揚々とモニタの中年男に笑いかけた。
「それに見てっ。ピヤトスの塩漬け、いい具合になってるでしょ? 絶対みんな、気に入ると思う」
大きな瓶の中に5、6センチ程度の白い幼虫がたっぷりと詰められている。
「古代人は幼虫なんて食べないよ」
乱れがちな映像と音声。
ヤールはお決まりのジャケットを着ている。
「だけどっ。虫食文化は100年の歴史がありまして」
「彼らが眠りについたのは何年前だ? 彼らの時代にはかすっていないという事だよ」
ヤールは苦笑した。
「でも今は食糧難とかじゃないのに普通だし、受け入れてもらえるかも」
「そうだな」
もたれ掛かった椅子がギイ、という。
彼女が中央での「義務教育」を終え故郷に戻ってから三年。
しばらく待てばシェルターで眠る人々の目覚めは許されると、昔からそればかりを楽しみにしていた。
それはミオや管理人のヤールはもちろん、その先代の管理人たちも同じように抱いていた想いだった。
ミオはシェルターで眠る人々の事を「眠りの城の住人」と呼んでいる。
住人たちをコールドスリープから目覚めさせる事については、半世紀もの間様々な議論が繰り広げられていた。
ようやくそれらの話が収まってきたのが3年前の話だ。
それから中央のシェルターの管轄組織から科学者達が派遣され、ここで眠っている99パーセントの
人間は死んでいるとの見解を下したのだった。
「一昨日はキリ婆さんの3回忌だったね。そちらへは参ったのかな」
「うん。もちろんお供えも」
「よかった。それにしてもいつの間にそんな沢山の虫を育てたんだ」
「実は、驚かそうと思って準備してたんです。これでお酒をやると、美味しいと思うの」
「あぁ。楽しみだ。だけど君には10年早い」
ヤールは少し笑った。
「十年も待たないよっ。あと数年経ったら私も一緒に飲める年になりますよっ」
部屋の電気がチカチカと点滅する。
「この時間からか。電圧不足がひどくなっているな」
ヤールが言った。
「どうにかならないかなー。こないだなんて、シャワー中に真っ暗になって凄く怖かったんだよ」
「そうか、シェルターのシャワーを使うのはやめた方がいいかもしれないな」
ヤールがうなる。
「でも、そこら中お掃除してたらすぐに汗だくになっちゃうんだもん。使えないと困るよ」
「極力節電をしているはずだし、それ以上は出来ないさ。ここには機械に詳しい技術者も
眠っている。うちの設備もガタついてるし、良くしてほしいものだな」
「えー。みんな目覚めた後はこんな場所、すぐに用済みになっちゃうよ」
「どうかな。あの胡散臭い調査の後、中央が立てたのは全員分の死体袋の小計だったというくらいだ。
みんな生きていたら受け入れ場所も無いのだから、しばらくはここで暮らすようかもしれないぞ」
当時の優れた技術だけが、衰え途切れながら受け継がれてきている。
彼らを目覚めさせようとの結論に至った理由は、その衰退しきった文明を呼び覚まそうという目論見だけではない。
そこには深刻な人口減少問題があった。
北の果てに落ちた原子炉衛星が人類の生態系に大きな異変をもたらし、生殖能力を徐々に失っていた。
病気にもかかりやすくなり、それは世代を経るごとに発症が早く、症状も重くなるという表現促進現象がみとめられている。
眠りの城の住人達は、人類がその力を失う以前の人間だ。
仮に99%の人間が死んでいたとしても、彼らの体から得られる事は大きいという。
「それにミオ。私の前で無理して笑うことは無い」
ヤールは独り言のように言った。
全て悟っているよと言いたげて、それが嫌だとミオはいつも思っていた。
作り笑いなんかではない。
無理して笑えるほど自分は大人ではない。
「ううん、私、絶対誰か出てきてくれるって、本気で思ってるよ。この間お話したツアーフラッグも出来上がったの」
「世界の果てツアーだろ? まさにテトゥルはそんな場所だよな。どれ、見せてご覧」
ミオは古着の布に刺繍を施した旗をヤールに見せた。
ようこそ150年後の世界へ テトゥル世界の果てツアー
「見える? ちょっとこの時間は画像が乱れるから……」
ミオはモニターの前で旗をくるくる回す。
「見えているよ。上手に出来ている。きっと、中央の連中もみんな笑ってくれる」
ミオは意図的に自分の顔からカメラを逸らした。
「みんな」という響きに、ついに現実味を感じ、涙腺が緩んだ。
来る事になっているのは、住人達の健康状態を調べる医師団ではなく、生死を確認しにくる中央管理官だ。
ヤールは既にそのことを思って言っている。
◆
ヤールのモニターには、ミオの顔ではなく、0−0エリアの番号が映っている。
一ヶ月後に迫った『解凍日』ではまず、技術者関係者の多い最下層の0エリアの解凍を行う予定だ。
今、ミオの居るエリア0、制御室のある一番奥の部屋、そこには二週間前まで彼女のお気に入りが眠っていた。
シュンリという、彫刻のような美しい青年。
テトゥルシェルターの責任者、ロマノフ・ランドスタイナーの息子。
しかし責任者で彼の父親のロマノフはここには居ない。
150年前の時代に止まりそこで没したのだ。
かなりの老体であった事などからシェルターでの避難は断念し、息子に未来を委ねたのかもしれないという事だ。
彼の身内は存在せず本来関係者が眠っているはずだった部屋にはなぜか5人分の空きがあった。
その後の責任を担うはずの人物が居なかったのだ。
長らくそれは、ミオがこのシェルターの謎に魅せられた理由の一つだった。
しかしそれも時の経ちすぎた今、語り尽くされた謎に過ぎなかった。
かつては全国の資料が寄せられ当時の状況を詳細に掴もうとする動きもあったが、そのようなブームも薄れていった。
十年前までこのシェルターは寺院によって管理されていた。
シェルターに偉大な宗教家が眠っているとか、冷凍睡眠者は即身仏だなどと、今は廃れてしまった「シビラ教」という宗派がその考えを触れ回っていたのだ。
文化人類学者で、古代人の研究をしていたヤールが、
テトゥルシェルターが国営となったのは、シェルターと宗教が関係ないとヤールに証明されてからだ。
それからというものシェルターの管理人は中央から歴史に関心が強い者が配属され、シェルターの機器類の管理や掃除を行うために存在して
いた。
ヤールが書いた古代人についての本は都市部でベストセラーとなった。大勢が古代人たちの冷凍解除を望んだのだ。
冷凍睡眠者たちの安否の確認方法や冷凍から目覚めさせるための
手続きなどに対しては、慎重を要した。
そのあいだにブームも去り、ここに人員を割くよりも都市部で調査と研究をというスタンスとなり、シェルター自体を守る人間は常に一人いればいいということになってしまったのだ。
「そろそろ切ろうか?」
ヤールが言った。
モニタには0エリアの壁が映ったままだ。
ヤールは息をつき、いつもの優しい笑顔を向けた。
「えっ。もう少し話をしていようよ」
ミオはハッと我にかえったように携帯電話を正面に向けた。
「そうかい? だけど今日は月が無いから、帰りも早い方がいいだろう。それに、彼も家で待っているんだから」
「……そうだよね」
ミオの少し沈んだ声。
試験的にシュンリのコールドスリープを解除する事の許可が出たのが二週間前だった。
そう、彼は蘇生した。
だが、まだ目覚めていない。
植物状態で生きているだけだ。
それからたった二週間、彼は中央から派遣された医療チームの管理下にあった。
彼らは思いつくだけの処置をしたという。
結局チームはやるだけ無駄と判断し、身寄りの無い彼をこの地で療養させるようにとヤールとミオに託した。
それが中央が調査の結果出した「死んでいる」という事と同じ事なのか、そもそも調査が杜撰だったのか、
それともシュンリが息を吹き返した事が特別だったのか、もう暫くしたら目覚めるのか、わからない。
予算の問題も大きく医療班は先週から撤退し、彼の世話の全てをミオは引き受けていた。
「今朝はどうだった?」
「……はい。様子も変わっていません」
「もうすぐ私も帰る。大丈夫だ」
彼の具合によってこれから解凍の日取りが変わるかもしれない。
だが、暇なシェルターの管理人生活に、長年お気に入りだった彼との生活が始まって、ミオは正直浮かれていた。
本当はシュンリが待つ自分の家に、今すぐにでも帰りたい。
「今は彼の事だけは守ってやると、それだけ思っていればいい。私に言われても説得力は無いかもしれないが」
ヤールは苦笑した。
ヤールはミオがここで管理人の見習いを始めた三年前には既に病の最中にあった。
それがよくなり、ヤールは暫くシェルターの管理人の仕事を離れ、別の技術職をしていたが
数か月前からミオと暮らすようになっていた。
真面目なヤールが孤独なこの土地で、一人考え込み気を病んでしまう事は頷ける話だとミオは思った。
だからヤールはこうして自分を気遣って頻繁に通信料の掛かるテレビ電話で気にかけている。
「私、お父さんと電話するのが楽しい」
「お父さん?」
ヤールは落胆とも驚きとも言えないきょとんとした表情で答えた。
彼は今年で43才、ミオからしてみたら十分そのくらいの年齢だ。
「ヤールさんって、なんだか大きくて、包容力っていうか、そんなイメージで。だめ?」
ミオは撤回するように両手を突き出し手を振った。
おどけてみせたが、ヤールは一層暗い面持ちで頭を降った。
「体ばかり大きい癖にこんなになってしまって、情けないよ」
ヤールは酷く皮肉に笑って見せた。
「情けなくありません」
ミオは口調を強めた。
「そうやって考え込んじゃうのは、優しいからだよ。その感じ、私もわかる。私もヤールさんが
居なくて寂しかった。私なんかが偉そうな事言ってるのはわかるけど本当に私でも、そう思う」
ヤールは言葉を詰まらせ、「そうか」と言った。
「人って、不思議だよねっ。気持ちだけじゃ強く生きられない……。誰かが居て、その人の中に自分が存在してるって、
他人の身をもって感じて初めて生きていける、そんな感じがする」
だんだん小声になる。
ミオは言っているそばから恥ずかしくなっていった。
「よく、わからない事言っちゃったかも……ごめんなさい、ヤールさん」
「君は私なんかより、よっぽど人間らしいよ。そうだね、弱さというより当然の反応だね、感情というものは」
ヤールは優しい口調でこたえた。
「私ね、ヤールさん。この三年間、自分が一人だと思ったことなんて無かった。ヤールさんもたまにこうして電話を
してくれていたし、一ヶ月に一度はトコリから物資を送ってくれる人が居て、話も出来たから。でもこの間までヤールさんと
暮らして、それでまた居なくなっちゃって凄く寂しくなった」
「そうかい。だけど君を本当に生かしていたのは、彼だろ。もうキスの一つや二つしたか?」
ヤールがちゃかして笑う。
「やだ、だから違うってばっ……、それに意識の無い人にそんな泥棒みたいなこと、出来ないよっ」
ミオが慌てて顔を真っ赤にするので、ヤールは腹を抱えて笑った。
恥ずかしくなりながらも、最近声を出して笑うようになったヤールの姿が、ミオもうれしいのだった。
「目を覚まさないし、世話もかかるけどシュンリがうちに居て、私、幸せです。それだけで
生きている事が楽しいの。だけど、このまま本当にシュンリ、目覚まさないのかな。ヤールさんと一緒に来た
お医者さんも、なんで一週間で見限っちゃったんだろう。もうちょっと色々頑張ってくれたら、もしかしたら……」
モニタの向こうでヤールが息をつく。
「仕方ないよ。大分昔の話だが、責任者が目覚めない限りは他の人間も目覚めさせられないと、そういう決まりを作って
しまっていたのだからね、それで今回の解凍が決まっただけ凄い話だ」
「でもそれは……みんなが死んでるとわかったから決まった事ですよね。シェルターの管理費も無くなって。
ぐずぐずしていなかったら、もっと早く出してあげて居ればこんな事にはならなかったはずなのに」
ヤールは再びため息をついた。
「ああ。だけどいつの時代からか宗教がシェルターにかかわるようになっていて、10年くらい前までは、
シビラ教とか色々とうるさかったんだよ。あの浜辺にも何日間か居座られて困ったもんだった。その連中を
どうにかするのも管理人の仕事だった」
宗教の起源についてはわからない。
ただ、このシェルターを寺院が管理している時代があったということは聞いている。
ヤールは詳しそうだが、ミオは一度も彼らの事を聞いたことは無かった。
どちらにせよ昔から国には余裕が無く、シェルターを維持する余裕さえ無くなっている。
今回解凍が決まったのも、3年前の調査で住人達が死んでいるとわかったからだ。
彼らの面倒を見る余裕はもう無い。
あれだけうるさかったというシビラ教の反対派の波さえ今や衰えている。
中央まで繋がっていた国道が10年前から水没して交通もかなり不便になった事が大きな理由だと言うが。
ろくに周知もされていない。シュンリをテスト解凍した事は最寄りの街であるトコリの役人たちさえ知らない。
ヤールが苦々しい表情に戻っている。
これ以上の話題はいくらヤールと自分の間でも、駄目だ。
だがここの所ミオ自身ナーバスになっていることも事実だ。
その話題を何度か口にしてしまった。
ヤールが内心辟易しながらも付き合ってくれている事はわかっている。
「……せめて、トコリの人たちくらい、シュンリが生きてるって知っておいてもらっても、いいと思うの」
「それは絶対にやめておきなさい。小さな町だが騒ぎになれば大変だ」
ヤールが静かに告げる。
そんな事は自分の判断でしたりしないのに。
ミオは内心毒づき、言葉を返さなかった。
「役所の人間には伝える予定だ。もしも彼が解凍日までに目覚めてくれたら、他に彼と同じ状態で生存している
者も診ていこうという事になるかもしれないしね」
ヤールは少し優しい口調で言った。
「そろそろ時間だな。松明が燃え尽きたらまっすぐ家に帰りなさい」
「はい、お父さんおやすみなさい……」
ミオは通話終了のボタンを押した。
プツンという音と共に、画面に少し困ったような自分の顔が映り込む。
(私、こんな顔をしてお父さんと話してたんだ)
ミオは携帯電話をテーブルに置いた。
突如訪れた静寂。
その静けさに慣れると、呼吸をするような機械の稼動音や換気扇の音が聞こえてくるようになる。
ミオは暫く椅子にもたれていた。
シェルターの管理をするということは、すなわち孤独を意味する。
今やここは本物の死体安置所となりつつある。
◆
ミオは部屋を出て、いつもの管理用エレベーターで地上へ戻った。
生温かい潮風。
目の前に広がる黒い海。
陸と海の境界が曖昧になり、全てが飲み込まれてしまいそうなそんな時間。
夜は人を襲うハミ(蛇)が出る。
ミオは懐中電灯を持ち、丘を降りていく。
拳銃も護身用に必帯だ。
中央に居た時、射撃の実習もあったが、ここへ来て一度も撃ったことはない。
テトゥルを訪れる人間は居ないかった。
反対派の宗教関係の人たちだって一度も見かけない。
最近国道が水没し、山賊が出るという旧国道を使う事になってからはますます人も寄り付かなくなった。
はるか昔、テトゥルはウイスキーの街だった。
年間、どれくらいの人がこの地でウイスキーを買って行ったのだろう。
今も設備は当時のままだ。
もしも住人達の誰かがここを気に入れば、ウイスキー工場は再稼働出来るかもしれない。
それも今では非現実的となってしまった夢の一つだった。
この三年の間に、ミオが思い浮かべていた夢の殆どが打ち砕かれてしまった。
町も工場も無くなれば、原野に戻るだけだ。
住人達の目覚めに夢を馳せていた想いも、ここに人が居たという痕跡も無くなる。
◆
丘をおりた頃には、あたりは真っ暗になっていた。
強くなった潮風が髪を揺らす。
少し歩いた所に、かつてテトゥルのフォルメンテーラとまで呼ばれた美しい浜辺がある。
エテルノ・プラージャ(永遠の浜辺)。
ミオは虫除けの香を炊き、松明に明かりを灯した。
エテルノを訪れる者が滅多に居ないというだけで、この浜辺は美しいままだ。
否、誰の目に触れることが無いからから美しいのだ。
テトゥルに限らず、世界中のあちこちはこうして、人間で栄える前の原始の自然の美しさに近づいている。
松明を灯すことにもはや意味は無い。
毎日制服に着替え公務員ネクタイを締める事と同じ。
この原野に戻りつつある自然の中、「人間」として住むことを許されている者としての一握りの矜持。
船は通らない。
少なくとも中央での仕事に戻ったヤールの代わりに
ミオが一人で管理人を任されるようになった三年間は一度も。
炎がゆらゆらと波に輝く。
世界中のあちこちで、色々なものが萎み、消えつつある。
あの絶望的な報告を受けたのは、今より寒かった春先のころだった。
中央から派遣されてきた科学者達は数時間の間に簡単な書類だけを渡して帰って行った。
99%の人間は死んでいると。
だが、そんな事は無いと自分の帰りを待つ彼は証明している。
150年も眠っていたのだ。
そこから本当の目覚めを迎えるのに時間がかかっているだけかもしれない。
ミオはツアーフラッグを海に投げ捨てたくなるような衝動を抑え、胸で抱きしめた。
この気持ちがいつか諦めに変わったとしても、自分はこのエテルノで生きつづけよう。
香の煙が時々ふわりと視界をかすめる。
亡霊が現れるにはちょうどいい時間だ。
海と空の境界はとうに無くなっている。
ミオを悩ませる亡霊の夢。
だが、いつの間にか夢をみていてもそれは夢だと気付くようになっていた。
ミオは足をだらんと橋の外に無げだし、両手を広げ寝転がった。
虫除けの香には、どこか頭を麻痺させる成分があるらしい。
時々潮とともに、独特の薬草の香が鼻腔をつき、ぼんやりと心地よい痺れをもたらすのだ。
それとあいまって、月が無い夜は星がきれいで、より感傷的な気分にさせる。
辛い夢を見るにはぴったりだ。
「……南十字を見てみたい」
北半球にあるこの土地からは南十字は見ることは出来ない。
今、南の人々はどうなっているのだろう?
とうに沈んだ本物のフォルメンテーラ、自分が生まれる前に存在したという夢のテーマパーク。
漠然とした疑問。
そんな事を考えては泣き、海に涙を零していた。
この一滴一滴が、波音を作っている。
そして海面の上昇を。
ここに自分が居なくても、波は打ちつづける。
星だって同じだ。
今、頭上に瞬く星を、たまたま空を見上げた自分が見ている。
見上げる事が無かったら一生誰にも届かなかったはずの何億年も昔の輝き。
「ガイドさんも、おどろ?」
後ろを振り返ると男の子が居た。
小さな手を差し伸べている。
「どこで踊るの? 月も無くてこんなに真っ暗なのに」
「いいんだよ、今日はお祭りだ。キャンプファイアがあるよ。オクラホマは踊れる?」
いつの間にか、太鼓の音が響いている。
それに合わせて笛や弦楽器の音色が奏でられる。
男の子の後ろには、炎を囲み踊る100人の亡霊が居た。
「当たり前じゃない。だって私、ガイドさんなんだから。歌も歌えるよ」
再び目を開いた時、私の目の前に広がるのが
朽ち果て色を失った世界だとしても
私はそれが夢だという事に気づかないだろう
壊れた電信機が叩く音は風音に飲まれ
虚しさの余韻だけが滞り
やがてその空間を蝶が舞う
私はどこに居るの
幾つもの夜を共に過ごしただろう
あなたはシグナルを送るのをやめた
優しく撫であったその時間は確かに現実だった
それは眩しすぎる碧色、延々と続く共依存
あの時あなたがどんな言葉を
刻んでいたのか私にはもうわからない
電信機の音はもう聞こえない
ヒマワリ畑を抜け門を潜ったら
電信機の音はもう届かない
たどり着くならまだ青く、若い星がいい
霧のような空が広がるその大地には小さな島が浮かび
私はその砂浜で一人踊りつづけるの
長い、長い一人の時間を
ミオは松明の灯りが徐々に小さくなっていくのを見守り、そっと桟橋をあとにした。
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波の音……。
深く深呼吸する度、今まで凍っていた肺の細胞一つ一つが溶けて広がっていくような感覚が身体に染み込んでいく。
彼はどうにか身体を起こした。
体は嫌に動きが鈍く、思うように力が入らなかった。
右腕は何本も点滴で繋がれているが、どのパックも空になっている。
改めて周囲を見渡すと、そこは子供部屋のようだった。
パッチワーク柄のクッションにベッドカバー。
部屋を埋め尽くす家具にはどれも古めかしさを感じた。
出窓に置かれた花瓶に、花の代わりに白い旗が挿されている。
「ようこそ150年後の世界へ テトゥル世界の果てツアー」。
点滴を引き抜き、床に足を下ろす。
その時、彼は強い動悸を感じた。
ふと、姿見に自分が写る。
ゼエゼエと肩を上下する金髪の青年。
眠りにつく前と何も変わらない自分の姿。
「……俺は」
安堵すると同時に、「自分」にまつわる様々な記憶が蘇る。
彼という人物を形成してきたこれまでの記憶の渦。
肺の細胞が空気を得て広がっていくのと同じだ。
萎んでいた脳神経の一つ一つが発火し、つながれ、夢と
そうでない現実との識別が瞬時に行われていく。
その感覚はさながらロケットに乗って長い時間をさかのぼるようだった。
彼はしばらく蹲っていた。
実際、その感覚が呼び覚まされ統合されるには、数分間の葛藤があった。
長い時間旅行をした気分、それがこの感覚なのだろう。
冷凍睡眠が溶かれた後、すぐには目覚めなかったのだ。
そうだ、冷凍睡眠。
自分は長い眠りについた。
筋力が衰える程度の時間は眠ったままだったのだろう。
だが、それほど長い時間が経ってしまったわけではない。
……外は、あの原子炉衛星は、どうなっただろう。
原子炉衛生の落下と戦争の始まりは、ほぼ同時期だった。
彼は戦争から逃れるために田舎町、テトゥルのシェルターに入った。
しかし彼にとっての「昨日」とは、シェルターに避難するためにテトゥルへ訪れた記憶の事だ。
ここへ入った「昨日」と今この瞬間である今日という日は、こうして落ち着いてみると感覚的に似ている事がわかる。
だが、その感覚を越えて、それと同時に長い時間が経ったという事も同じように理解できた。
旗に書いてある事が事実ならば、ここは150年後だ。
気分は落ち着いている。
過去の自分を苛み続けていたあの焦燥感や猛烈な倦怠感も、今は頭が忘れているようだ。
窓の外に見えるのは静かな海。
ここは漁村だったはずだが、暫く耳を澄ましても漁船も汽笛の音も全く聞こえてこない。
人の気配が無い。
本当に150年経った事を前提に考えてみる。
カレンダーには今現在が星歴100年の5月である事を示されている。
「星歴」。
それは置いておくとして一年を通して寒いはずの気候も、150年の間に変化してしまったというのだろうか。
ただ、亜熱帯地帯で暮らして居た経験から、忘れかけた懐かしい陽気のように感じる。
そう。
そんな国で暮らした事があるという記憶もたった今呼び起こされたものだ。
彼は視線を少し落とした。
潮で傷んだ出窓の木枠には蝋燭を立てた跡が4つ残っている。
山信仰だろう。
窓辺に四つの蝋燭を立て、霊山に見立て祈るのだ。
ならばあの寺院も健在ということだろうか。
と、花瓶の下に藁半紙がしいてあるのが目に入った。
『おはようシュンリ。ここは150年後のテトゥルだよ。
停電しちゃったみたいなので、北のシェルターの様子を見に行ってきます。
着替えはチェストに入っているよ。お昼ご飯には戻るね。 ミオより』
時計は午後3時を過ぎている。
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数秒の間に、自分が自分であった事を思いだし、現実に帰る。
夢を見ない日の目覚めとはそういうものなのだろう。
それに浸る。
外はまだ薄暗い。
水中を漂うような、しかし、確実に浮上が約束されている、
これ以上沈む事の出来ない時間。
だが、朝と夜のこの間は、部屋の輪郭もカーテン越しに透けて見える外の景色も
全てが曖昧だ。
触れてわかる範囲で、自分と、寝具、壁という無機質、彼女という有機物が
徐々に分離されていく。
あたりは静かだった。
彼女が嫌う隣人のいびきも、洗濯機の音もしない。
聞こえるのは、わずかな風音と寝息だけだ。
それでも、何か忘れている。
朝になったら眩しすぎて見えなくなるような、気にも止めない何か。
それがあった事は確かで、出来れば思い出さない方がいいはずの記憶。
考えないようにすればするほど、浮かび上がる輪郭。
それは、どうせ罪と後悔の記憶だ。
「許して」
隣で眠る恋人が呻く。
こんな曖昧な時間の中でさえ、彼女は解き放たれていない。
そもそも、誰だって自分が自分である事から逃れることは出来ない。
許すと答えてやる事が出来たのなら、ここまで自分たちが続く事は
無かったのかもしれない。
結局、自分たちは、この朝まだきの関係で居たいのだ。
「……おはよう。まだ、外暗いじゃん……」
「お前が何か、言ってるから」
「なんて?あたしがなんて言ったの?」
彼女が体を起こす。
暗闇にぼんやりと浮き立つ白い肌。
忘れかけた熱を思い出す。
「……あたしたちも、部屋も、外の世界も曖昧だと思わない?」
「……」
「あたしたち、この曖昧な空間に溶けてたの。眠っている間は私たち、ずくずくに溶けて、
感覚も何もかも共有しているんだよ。形が無くなるの。あたしでもあんたでも無くなって。
起きているときはバラバラに思えていたようなほんの小さな事だって、全部が混ざるの。
その間の事を今思い出せないのは、そうしている間は全ての感じは、誰の物でもなくなるからなの。
それで朝になるじゃない。別々の物を見て、別々に感じる。あたしにはあんたが見えて、
あんたにはあたしが見える。でも、あたしは時々、もうあたしでなくていいやって思うの。
ずっとそんな曖昧な世界に居れたらいいのにって何もかも放棄したくなるの。
たとえばあたしは、目が覚めた瞬間、いつも思い出すの。本当は一人だって。
本当は誰とも共有なんてしてない。喧しい情報だらけの世界に、あたし一人だけだったって。
これまでずっと一人だったから、その感覚をしんみりと感じるの。誰かと同じ部屋で寝てると、
ずくずくの間に、分離しきれなかったあんたがあたしの中にも混ざって、
お互いの悪意みたいなものを纏ったまま、生身のまま、悪いことをしているって、
最中でさえあたしは結構冷めていて、そんなことを考えているのよ。だから、
責任を放棄していたとかそういうのとはまた違うのよね。それで、許してほしいって思うんだよ。
都合よく、こうも思い通りになっちゃうもんだから、そうやって使ってっちゃおうって
流れにもっていかれてたっていうか。あんたは気づいたのよね。逆に思い通りにされていたって。
奪われていたのはあんた自身もだったって。あたしの部屋に、来ちゃう理由も、それなんだよね。
置き忘れた自分の破片が、ここにも残っている気がするのよね。あんたは一体どれくらいの人と、
そんな風になったの? もう拾えきれないのにさ。いつの間にか色々な害悪に稀釈されて、
とっくになくなってんのに」
だから、もうやめなよ
ずぐずくの海に沈んだ罪は、もう二度と救えない。
前を向くしか無いんだよ
その残滓が誰かを殺しても、もしくは殺されることがあったとして、
それは仕方ない事なんだから
忘れるより、ずっと自分に正直な生き方だって。
自業自得って思えるならさ
さざ波
遠くの教会の昼を告げる鐘の音
今日も私はひとり目を覚ます。
最近になって遠くから聞こえてくる鐘の音は人の手によるものではなく、
太陽エネルギーで機械がならしているものだと知った。
人の存在を感じられるものがもあるなら何でも良いと思っていたのに。
時間の流れを私一人に見守らせ波はいったりきたりしている。
彼らと居た光景は
花の香りや土のにおい眩しい日差しとともにある。
目を閉じるとこうしてより鮮明となって思い出される優しい時間。
私が海をひと蹴りすると、遠くの大陸に大波となって届く。
私が綿毛を吹くとその風は向こうの荒れた雲を遠くへ吹き飛ばす。
この世界は広い。
静かに流れ落ちた涙は、さざ波の一部となり私は明日も目覚めるだろう。
◆2・100人の亡霊
北に広がる広大な施設、その建物の中で数百人の人が眠って居るという。
幾度となく流行った終末論に翻弄された人々が最終的に選んだのが
その巨大なシェルターだったのだ。
曾おばあさんの時代、この世界には信じられないくらいの人が居て
街もいたるところにあった。
それを証明するものは海の底に沈んだ街と、丘の図書館にしかない。
当時の技術は凄まじく、あの藍色の瓦礫の山も、もともとは大きな塔だったそうだ。
あれからいくつの土地が原野に戻っただろう。
世界の終わりなんて、きっとこんなもの
あと、3年後に全ての人が目覚める予定だった。
最近の調査によると、その施設で眠る99%の人は氷漬けにされたまま二度と目覚める事は無いという。
もしも3年後、一人でも誰か目覚めたらまず何処を案内してあげよう……
その日は流星の降る夜だった。
いくつもの星が北の施設の方へ落ち
私は
目を白黒させる100人の亡霊の夢を見た
(終わり)
]]>
マスターと、小さな客のひと時
―─彼女はここで暫くアルバイトをしていた。
毎晩疲れて、一杯だけジン・トニックを飲んで帰って行った。
とても綺麗で背が高かったから、うちの看板娘のような存在で、人気者だった。
人の話を聞いてあげるのが上手な、優しい子だった。
それが、彼の前では変に気張っちゃって、ずっと話をしてしまうんだ。
付き合いも長いし、一番話しやすかったんだろう。
彼もどっちかというと、話すより、きいているタイプだった。
そうか。
君の前だと彼は笑うし、冗談まで言うんだね。
それは君が特別だからだよ。
彼女にとって、彼が特別だったのと同じでね。
だけどね、それが、どんなに尊い事か、その時の彼は、
自分の事が辛すぎて気づかなかったし、大したことではないと考えていたんだ。
大丈夫、彼は帰ってくるよ
きっと今、彼はあの時ほど自分を不幸だとは思っていない。
だから、彼女だって、
どこかで元気にやっている
僕はそう思っている。
もしかしたら、この店と似た感じのどこかの店で、働いているかもしれない。
だから、今日くらい探しに行くのはやめて
この店でゆっくりしておいで
<終わり>
◆最悪なあとがき◆
プリンの話はちょっと気に入っててあちこちで適当に話してます(作者が
何が好きかって、www報われないビッチの話が大好きなんだ(ゲス顔(自己規制)
いや、結局お菓子は腐るんだけども心の表象があるってなんとなく素晴らしい事ではないか。
近くにその人と居ないときに、相手の事をなんとなく思い出して
お菓子買ってあげよう!そして一緒に食べたいなw
って思えるって、簡単でありふれているようで、実はけっこう高次だよなぁって思いますネ
この人達はマンネリ感であふれていて、気持ちがすれ違いはじめてる感じです
マスターと、小さな客のひと時は、客が小さい的な描写0ですが
まぁ、小さい子が来たって事で。
どこに行っても彼は、誰かを心配させています。それ以上意味は無し
書いてる小説の冒頭にこういう断片をいくつかいれようと思ってます
後でつながる、伏線回収みたいな。それで、
後で見てみたら実は、これだけ見たら、まったりでほんわかしたムードだけど
全体でつながったときゲロ吐きそうになる仕組みにしたいと思っています。
マスターも小さい子優しく諭してあげてるんだけどね
私は本当は夢も希望も無いゲスい話が大好きな癖に自分で書くと
煮え切らない毒を吐きだしきれない話、まぁいい感じのやさしい話にまとめよう
と思ってしまう癖を利用したいと思います。
高度成長時代、秋口……
とある町で配達業を営む男は過去を引きずり罪に苛まれ虚無な日常を過ごしていた。
そんなある日、向かった荷物の届け先でスクーターが故障してしまう。
森の奥にひっそりと佇む屋敷に住む女との
奇妙な七日間の監禁生活がはじまる。
laurier
私には分からない。
あの時の自分の決断の理由が。
だから今も「あの小包」の中身も調べられずにいる。
私はこれをあそこに再び返しに行くべきだろうか。
思い返してみれば私の今までの日々は実に味の無いものだった。
一番気に入っていたはずのこの窓から見下ろす町の景色でさえ今では
色彩の伴わない白と黒のそれだけの世界のようにしか感じられないのだ。
ああ、自分にもう少しだけ勇気があったとしたのなら、私はあの時彼女の手を取り、
そうされたように背骨が折れてしまう程の力で強く抱きしめて居ただろうか?
膝の上の小包の茶色い包装紙がぽてぽてと落ちる涙で滲んでいく。
]]> しかしそうなったのは当たり前の話だ。
長い間戦争に明け暮れたこの地は死体で溢れていた。
血で汚れた大地の上に建てられた城、腐った死体から襤褸を剥ぎ取って
生き残った人々、その死肉を食らい生きてきた鼠。
平和が訪れた事がこの国に今まであっただろうか?
じわじわと、腐った土壌に建ったこの城もきしみ崩れ始めている。
否、建ったその瞬間から崩壊が既に始まっていたのかもしれない。
大勢で復讐する鼠の群れを、一気に殲滅する。
規定以上の火薬を爆弾にこめて。
そもそも規定とは? 条約とは? 倫理とは? 罪とは?
一日に一体、どれくらいの数を?
ただ殺す。
時にまとめて捕らえ見せしめのために町につるされた状態で殺すという。
一体何の意味が?
だけど私の部屋には鼠は来ないし、鳴き声だって聞こえないくらい離れた場所にある。
私はいつものように絵本を取り出し、暖炉の前で温まりながら沢山のお人形と一緒に童話の世界に夢を投じる。
いつだったか、父が連れて行ってくれたサーカスでは沢山の動物が玉に乗ったり立ち上がったり
火の輪を潜ったりしてとても楽しかった!
芸が成功するかどうか、その時打ち鳴らされる小太鼓や大太鼓、
シンバルのたたき出す音やドキドキ感は今でも心に残っている。
母がいつか私に教えた。
鼠は太鼓や小太鼓の音に合わせて踊るのだと。
太鼓が鳴るといつでも愉快に踊っていると。
世界は毎日パレードなのよと。
その音は私の部屋に、毎日かすかに聞こえる。
タタタン、と音が響くたびに鼠が踊るその様子を一度は私も見たいと思った。
だけど私は一度も両親にそれを見に行くことをせがんだ事は無い。
サーカス、パレード、舞踏会……。
『水が豊富で活気に溢れたこの若い星で、まだ生まれたばかりの陽を見つめてお姫様はその眩しさに目を瞑りました』
まだ朝は早い。
早く目を覚ましたお姫様はもう一度眠りにつく。
明暗ほどしかわからない、全てが曖昧な夢の世界。
だから、きっとこれも夢。
どんな暑い日でも寒い日でも雨が降っていても
私の世界には色が無い。
母は笑うけど父は笑うけど犬は吼えるけど私には何か感動を形容出来る言葉が見つからないの。
きっとどれも言葉足らずで伝えたい肝心な事は結局誰にも届かないから。
それは、もしかしたら自分の心にも。
『王子は、魔王をついに退治し、世界に平和が訪れました』
鼠の声は聞こえない。
いいじゃない、鼠、殺すなんてよくないよ。
生き物を殺すことは罪よ。
命を潰すことはわるいこと。
みんな、償え。
誰か一人でも、善意を持って何かと接しようと思えた人は居なかったのか。
でなければ、こんな残酷な方法で皆を陥れるような事なんて絶対に起こらなかったのに。
『そうして二人は幸せに暮らしました……』
この世界がうそだとしたら。
眠っている私が見せる、長い夢。
そうだとしたら私はまだ、本当の世界がどんな色に満ちているのかまだ知らない。
目覚めた後の気分も見当がつかない。
目を覚ました後に本当の世界が始まるのか。
霧の晴れたその先の向こう……空の上、そこから伝えてよ。
私がまだ幼く、母もまだ若かったころ、一度だけ鼠を見た事がある。
母はこう言った「鼠が黙るからリンゴを落としなさい」と。
ひとつ、ふたつ、みっつ……。
鼠にかじられる為のリンゴが地面へ落ちていく。
テラスから見下ろす景色はねずみ色。
沢山集まって喧しく何かを叫んで鳴いている。
地面に落ちたリンゴを彼らは食べたのかしら?
色の無い空から降る、真っ赤なリンゴを。
霧掛かって霞んだ、いつもと同じ空。
――こんな年でも鼠の赤ちゃんは沢山生まれたの。
だけど食べたリンゴは全て腐っていて全員死んでしまった。
――親鼠はリンゴを拾った事を後悔し、嘆いた。
そして自分が拾ってしまったその恥辱を噛み締め恨んだ。
チューーーッ ジジジッ。
私は小指を鼠に噛まれた。
そこから滴った色は、今までの世界に無かった色だった。
そう、その時初めて私にも聞こえた! 鼠の声が!
早く目覚めなくては。
目を覚まして、パレードを見に行かなくては!
目覚めた後の世界、世界、新しい、広い世界、美しい世界!
そこには暖かい紅茶があるのか、ケーキがあるのか、美しい景色が、
庭園が、眩しい光が、綺麗な水が、太鼓の音が、血が、襤褸が、鼠が
童話の絵本の紙の匂いが、暖炉の薪が、紅茶が、ケーキが
――回転する。
回転する色。
わからない、ここには何も無い。
知っているのに何も知らない。何も見ていない。
あの戦争と殺戮と罪は本物なのに、私は白痴を気取ってまた別の現実を信じて夢を見たいのね。
だから世界は私を拒んだ。
だからハーメルンの音は私をそっちに連れて行かなかった。
だから私の世界とあの夢のパレードは歓声を上げてさよならを告げた。
霞んだ青い空と私の庭。
世界は徐々霧に包まれついには色を失っていく。
目を開くとそこには天井の代わりに真っ暗な宇宙があった。
これが、天体、これが星……ここはどこか。
私は自由のきかない小さなカプセルに足を折りたたんだ胎児のように納められている。
これが罪、これが罰。
パレードの観衆の大歓声とともに私はあの国から打ち上げられ、それが遠ざかっていくとき、
私は本当の意味で戦争も殺戮も罪からも主義や主張、理想からも無関係になった。
私は宇宙をどれくらいのあいだ漂流したのだろう?
あれから戦争はどうなったのだろうか。
その間に伸びた手足はカプセルにおさまりきれず、もう感覚も失っている。
かすかに動く小指は痛い。
――ヒメはハクチだ
そう、そうよ。
そうやって何も分からない風を装い自分を護ること、
何も学ぶことなど無かったけれど、そこには父も母もお城も熱いスープも何でもそろっていた。
だけど私にとってはどちらの世界のことも曖昧で、何かを考えようにもやっぱり分からない。
只一つ、私はこの機械の数字の表示されたパネルの意味を理解した。
機械によれば、後一年間漂流してこの先の銀河に何もなかったら、
私は酸素も無意味に供給される点滴も失って死んでしまうのだ。
……いいえ。
何かがあったとしても、きっと通り過ぎるだけでどこにも辿り着けなどしない。
私の腐った小指からじわり血が滲む。
ただ、ただ苦しい。
カプセルが大きく回転すると私は上下左右を再び失い、この宇宙で今、上に居るのか下に居るのかもわからなくなる。
生まれる事の無い胎動のように。
ああ、一年後。
私は一人終わる。
真っ暗なこの空間で。
宇宙には音も光も無い。
真っ暗でここは寒い。
長い眠りの間に私の知っている星座はどこにも居なくなっている。
さそり座も北極星も。
今見えるあの赤い星を通過するのは後何日後だろう。
私は、私の死はどこに向かっているんだろう。
小指が痛い。
プシューッ、プスッ。
酸素の消費される音。
シタ、シタ……。
腐り往く私の肉片。
チューーッ、ジジジッ。
機械を動かす「ネズミ」の音。
「鼠」だなんて。
母がお城の外で喧しくしているのはおなかを減らした鼠達だというので
私はテラスの上から鼠のためにリンゴを落とした。
不思議な事に、今でもそれが私の最善の慈悲で倫理なんだから。
「パレード」はついには大きな暴動に変わり私たちの存在は否定され、王が護り継いで来た国の名前だけが残った。
全てが焼き払われた後、私は処刑法の一つであったこのカプセルに押し込まれ宇宙へ飛ばされた。
私が聞いたのは、戦争の終わりに歓喜する民衆の歓声ではなく、
象徴の処刑とともに新しい時代を迎える事に対しての歓喜だった。
チューージジッ。
機械は何かにぶつかって破壊されない限り動き続けるから、きっと
私の体は腐った後もこの宇宙を永遠にさ迷う事になるでしょう。
数十年、もしくは数百年以上の間を。
超新星、粒子、ブラックホール……。
宇宙の果てには何が待っているのだろう。
風船のように宇宙は膨張しているという学者の説が正しいのなら
この宇宙もいつしか破裂して消えてしまうのだろうか。
考えても考えても分からない。
私が中心で、私しかこの宇宙には存在しない。
法律も宇宙も秩序も何もかも、拘束される理念も倫理も哲学さえ私は知らない。
だから願う。
願い、あの星から見上げる空を夢見る。
霧の空
もう一度、夢を見よう。
泣いても叫んでも逃げ出すことは出来ない暗くこの孤独な世界から、
私の願いを、悲しみを、きっと届けよう。
辿り着くならまだ青く、若い星がいい。
霧のような空が広がる海には小さな島が浮かび、私はその砂浜で一人踊り続けるの。
長い、長い、一人の時間を。
春が来るなら春雨を浴び、夏が来るなら時雨を浴びる。
太陽があるなら美しい朝に感謝し、月が昇るならその月を愛でよう。
私の贖罪の旅は、霧が晴れた時にきっと終わる。」
彼女の故郷が滅んだずっと後、太陽系が乱れて月の軌道がそれはじめた頃、
機能が停止して浮遊するようになっていたカプセルは一つの隕石と衝突し、青い星に到着した。
凍りついた体も悲しみも苦痛も、新たな星に落下して、ついに彼女は
星の女王となりました。
(終)